和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

革心12/小説「新・人間革命」

2015年05月13日 07時48分02秒 | 今日の俳句
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 5月13日(水)より転載】



【革心12】


 孫山中の故居に立って山本伸一は、孫文と宮崎滔天、梅屋庄吉ら日本人との、友情を思い起こしていた。                             

 孫文は、一八六六年(慶応二年)に清国広東省・香山県(後の中山市)に生まれた。少年期をハワイのホノルルで過ごし、帰国後は、香港西医書院(香港大学医学部の前進)で医学を学ぶとともに、革命思想に傾倒していく。

 ポルトガル領であったマカオで医師として開業するが彼の目は、疲弊し、病んだ祖国・中国(清国)の、息も絶え絶えな姿に向けられていった。清国は、八四年(明治十七年)に起こった、ベトナムの支配権をめぐるフランスとの戦い(清仏戦争)に敗れ、さらに、九四年(同二十七年)に始まった日清戦争にも負け、列強の脅威にさらされていた。                                   

 また、清国内では、満州族による支配が続き、多くの人民の生活は貧しかった。

 孫文は、白衣を脱ぎ捨て、革命のメスを手にした。清朝を打倒し、民主主義国家をつくって祖国を救おうと、九四年、ハワイで秘密政治結社・興中会を結成。広州での蜂起を計画するが、失敗し、日本に亡命したのである。彼は、日本の明治維新に、中国における革命のあるべき姿を見ていた。

 日本では、宮崎滔天をはじめ、多くの日本人が、彼に協力を惜しまなかった。住まいの面倒をみることから、運動の資金や生活費の援助も行っている。欧米列強がアジアを次々と侵食していくなかで、新しいアジアをつくろうとする孫文の理想に共感したのである。

 国家、民族を超え、壮大なロマンによって結ばれた、友情と信義の絆であった。崇高な志による人間の結合は、新しい時代を創造する新しい力となる。

 宮崎は、孫文と初めて会った時、その風貌に軽さを感じ、失望を覚えた。しかし、語り合うなかで、感嘆するのだ。そして、自らを反省し、こう記した。

 「いたずらに外貌によりてみだりに人を速断するの病あり。これがためにみずから誤り、また人を誤ること甚だ多し」


■ 小説『新・人間革命』の引用文献
 注 宮崎滔天著『三十三年の夢』岩波書店
※ 主な参考文献
 鈴江言一著『孫文伝』岩波書店
 藤井昇三著『孫文の研究』勁草書房
 『世界の名著64 孫文 毛沢東』小野川秀美・責任編集 中央公論社




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