和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

小説「新・人間革命」

2015年08月12日 05時29分41秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月11日(火)より転載】

【勝利島19】

 北海道の札幌から鉄路二百十五キロ、北海道北部の西海岸にある羽幌に出る。かつては炭鉱の町として栄えたところである。さらに、そこから西へ海路約三十キロ、日本海に浮かぶ周囲約十二キロの島が、「オロロンの島」として知られる天売島である。オロロンとは、オロロン鳥(海烏)のことだ。島への船は、十月から四月の間、一日一往復となる。
 天売島では、毎年三月、オロロン鳥をはじめ、何種類もの海鳥が繁殖のために飛来する。四月から八月の繁殖期には、おびただしい数の海鳥が、島の岩棚を埋め尽くす。
 果てしない群青の海。岩に躍る純白の波しぶき。空を覆うかのように羽ばたく鳥たちの群れ……。その景観は、雄大で美しい。大自然が描いた一幅の名画である。
 港で船を下り、丘の上を見上げると、白壁の二階建ての建物がそびえ立つ。学会員の佐田太一が経営するホテルだ。客室数三十余室の天売島最大の宿泊施設である。
 島の住人は、約二百六十世帯八百人余(一九七八年現在)。その島に、当時、学会の大ブロック(後の地区)があり、六十九歳の佐田が大ブロック長を務めていた。
 彼の人生は、波瀾万丈であった。
 佐田の祖父は現在の青森県出身で、明治初期に天売島に移り住み、開拓を始めた先駆者の一人であった。この祖父は漁業で成功し、彼を頼って、青森や秋田から次々と人が集まり、島に住みついていった。
 佐田の家は、祖父も、父も網元をやり、島の実力者として名を馳せてきた。ニシン漁の最盛期を迎えたころには、島は漁の根拠地の一つとして栄え、人口が二千人近くにまで膨れ上がったこともある。
 海は豊漁を運んでくる。しかし、激しく過酷である。荒海は牙をむき、時として命をものみ込む。豊漁か、命を落とすのか――明日のことはわからない。
 人間の力の及ばぬ大自然を相手に生きるなかで、人の非力を実感する機会も多い。それだけに、強い信仰心をもつ人も少なくなかった。




                                

小説「新・人間革命」

2015年08月11日 05時14分13秒 | 新・人間革命
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月10日(月)より転載】

【勝利島18】

 田山広介は、炭鉱会社の労務担当者たちを前に、「学会は、いかなる宗教なのか」「何をめざしているのか」などについて、諄々と話した。労務担当者たちの態度も表情も、次第に変わっていくのがわかった。頷きながら、話を聴いている人もいた。
 労務担当の責任者が口を開いた。
 「率直に聞くが、学会は第二組合をつくって、会社に対抗するつもりではないのかね」
 「そんなつもりは全くありません。ただし、会社が法律を無視したり、人権を脅かすようなことがあれば、徹底して戦います」
 そして田山は、会社側が御本尊を取り上げた件について問いただした。その数は十五世帯で、会員の氏名も明らかにされた。また、御本尊は、「保管してある」とのことであった。当然のことながら、個人が受持する御本尊を持ち去る権利など、会社にはない。御本尊は学会員に返されることになった。
 この話し合いによって、会社側は、学会員には第二組合を結成する意思などなく、学会の指導は、社会性を重んじていることを理解した。炭鉱住宅での学会活動も自由にできるようになり、一段と弘教も進んだ。
 マハトマ・ガンジーは叫ぶ。
 「人は自らの信念のために声を発し、立ち上がらなければならない」(注)
 正義を、人間の権利を守るために、勇気を奮い起こして、声をあげるのだ。悪の跳梁を許してきたのは、常に沈黙である。
 一九七二年(昭和四十七年)、この島の炭鉱は閉山となる。多くの人が職を求め、島を後にした。それでも、五十世帯ほどの学会員が島に残ることになった。島は、クルマエビの養殖や観光などを産業の柱としていくが、学会員は、島の復興に大きな力を発揮していったのである。
 ここに挙げた九州の二つの島は、本土に近く、隔絶された孤島ではない。それでも島のなかで、学会員への容赦ない迫害があったのである。しかし、同志は、忍耐強く、広宣流布の開拓の鍬を振るい続けてきたのだ。

■引用文献
 注 「SPEECH AT PRAYERMEETING, BOMBAY(ボンベイにおける祈りの集会での講演)」(『マハトマ・ガンジー全集 83巻』所収)インド政府出版局(英語)






                                

小説「新・人間革命」

2015年08月08日 19時57分05秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月7日(金)より転載】

【勝利島16】

 その“炭鉱の島”で一九六二年(昭和三十七年)の六月、炭塵爆発により、六人が死亡、九人が負傷するという事故が起こった。
 この会社では、日々、ノルマを達成するまで、労働時間を延長させていたことなどから、作業員の会社への不満がたまっていた。
 そうしたなかで事故が起こると、「第二組合がつくられる」という話が流れ始めた。労働組合はあったが、労働者側よりも会社側に立っていたため、そんな噂が広がったのだ。
 会社側にも作業員への不信感があった。採用時に渡す支度金を受け取ると、いなくなってしまう人や、仕事を早退してパチンコにふけったり、酒を飲んで欠勤したりする人もいたからだ。
 欠勤や早退をする時、学会に反発している人たちは、その理由を、しばしば学会のせいにして届けを出した。
 一緒にテレビを見ていただけなのに、「非番の日に、学会員が折伏に来て、十分に休息できなかったため」「夜遅くまで学会の話を聞かされていたので」などと書くのだ。
 炭鉱の住宅は、壁一枚で仕切られた長屋であり、声は隣家に筒抜けだった。座談会を開くと、それも利用され、欠勤届に「学会の座談会がうるさくて寝不足」と書かれた。
 学会員は、細心の注意を払って、座談会を開催してきたつもりであった。
 会社側は、学会員を目の敵にするようになった。「座談会は、会社の了解を得てやれ」と圧力もかけられた。「座談会を開くなら、“炭住”から出ていけ」と言われた人もいた。
 やむなく、周囲に迷惑をかけないようにと、野外で座談会を開くようにもした。
 学会に不当な圧力を加えていた会社側は、第二組合結成の噂を耳にすると、“主導しているのは学会だ。会社への攻撃を開始しようとしているのだ”と思い込み、憎悪を剝き出しにした。全くの誤解によるものであった。
 会社側は、学会への対応に後ろめたさがあったことから、疑心暗鬼を募らせていたのだ。おのれの影に怯えていたのである。

  

                     

小説「新・人間革命」

2015年08月06日 17時06分46秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月6日(木)より転載】

【勝利島15】

 九州北西部の島で起こった迫害事件に対して、学会員は法的手段も講じ、懸命に励まし合いながら、解決への努力を重ねた。
 島の同志のすばらしさは、精神面でも、生活面でも圧迫が続くなかで、一歩たりとも引かなかったことだ。
 皆、信心を始め、折伏・弘教に取り組むなかで、病や家庭不和を克服するなど、体験をつかんでいたのだ。
 “弾圧――本望ではないか! 御書に仰せの通りではないか! 私たちの信心も、いよいよ本物になったということだ。今こそ、折伏だ!”
 それが、皆の心意気であった。
 日蓮大聖人の「今は謗ぜし人人も唱へ給うらん」(御書一二四一ページ)との大確信を胸にいだいて、五キロ、六キロと離れた別の集落にも弘教に歩いた。
 やがて、学会員への村八分を問題視する声が高まり、村長、村会議長、集落の中心者らが集って話し合いがもたれた。そして、「一部の有力者の圧力によって、学会員が冷遇されてきたことは遺憾である」と、学会に謝罪したのだ。また、「共に集落の発展のために尽くしていきたい」との申し出があったのである。
 学会員への不当な圧迫が始まってから、丸三年が経過していた。島の同志の信心が、人間としての誠実さが、一切をはねのけ、見事に勝利したのである。


 長崎県には、軍艦島の通称で知られる端島など、炭鉱によって栄えた島も少なくない。そうした“炭鉱の島”の一つでも、弾圧事件が起こっている。
 それは、一九六二年(昭和三十七年)二月に、島に班が結成され、果敢に折伏が展開されていくなかで始まった事件であった。
 御書には、この娑婆世界は第六天の魔王の領地であるがゆえに、妙法広布の戦いを起こせば、仏の軍勢を討とうと、障魔が競ってくると仰せだ。広宣流布の前進は、必ず迫害、弾圧の嵐を呼び起こす。


               



                                 

小説「新・人間革命」

2015年08月06日 16時55分46秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月5日(水)より転載】

【勝利島14】

 夏季地方指導の最終日に開かれた座談会の帰り道、島の若者たちが鍬や鎌を持って道端に群がり、学会員に罵声を浴びせた。
 学会員が次々と誕生していくことを快く思わぬ、地域の有力者の差し金であった。
 学会の幹部を家に連れてきたことで、家主から、家を出るように言われた学会員もいた。
 有力者たちは、さらに学会攻撃の作戦を練った。そして、それまで集落費から出していた神社への寄付金を、各戸から、直接集めることにした。それに難色を示した学会員は、集落に非協力的であり、秩序を破壊したとして、除け者にされたのである。会員のなかには、集落での一切の付き合いを断たれ、村有地の借地権を奪われた人もいた。
 島の産業は、漁業と農業で、農業のなかでも葉タバコが大きなウエートを占めていた。学会員は、その組合からも除名された。
 近野春好は、農業を営んでいたが、葉タバコ生産の組合から締め出されたために、野菜などの栽培に切り替えた。しかし、島では、誰も買ってくれなかった。やむなく、他の島に売りに行き、生活を支えた。また、学会員には、どの店も商品を売ってくれなかった。
 電報で連絡を受けた支部の男子部幹部や、九州の学会幹部が村長を訪ね、村としての対応を問いただし、事態収拾への協力を要請した。さらに、駐在所にも出向き、島民である学会員の人権を守るように求めた。
 それでも、集落での迫害は、いっこうに収まらず、非道な仕打ちは、子どもにも及んだ。
 学会員の家の子は、周囲の子どもたちに、「ソーカ! ソーカ!」と言われて、こづかれ、石をぶつけられることもあった。
 だが、いじめられても、親には、何も言わなかった。辛い思いをして頑張っている両親を、これ以上、苦しめたくなかったからだ。
 同志は負けなかった。迫害のたびに、「これで宿命の転換ができるね」と言い合い、「いかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ」(御書五〇四頁)との御金言を拝しては、決意を固め合った。


                                        

小説「新・人間革命」

2015年08月04日 06時03分22秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月3日(月)より転載】

【勝利島12】

 山本伸一は、懇談の席で、離島の婦人たちの近況に、じっくり耳を傾けた。
 多くの島の暮らしは、決して豊かとはいえない。島を出て、大都市に働きに出る人も後を絶たない。そのなかで、学会員は、人びとの幸せと島の繁栄を願い、ひたすら信心に励んできたのだ。
 伸一は、力強い声で語り始めた。
 「皆さんが、泣くような思いで広布の道を開き、どれほど苦労されてきたかを、私は、よく知っています。さまざまな島の方々から、たくさんのお便りもいただいています。また、全国各地を訪問するたびに、離島から来られた方とは、できる限りお会いして、懇談するようにしてきました。
 皆さんは、偶然、それぞれの島に暮らしているのではない。日蓮大聖人から、その島の広宣流布を託され、仏の使いとして、地涌の菩薩として、各島々に出現したんです。
 仏から遣わされた仏子が、負けるわけがありません。不幸になるわけがありません。
 ですから、どんなに苦しかろうが、歯を食いしばり、強い心で、大きな心で、勇気をもって、頑張り抜いていただきたい。
 私は、離島にあって、周囲の人たちに信心を反対されながらも、着実に信頼を勝ち取り、広宣流布の道を開いてこられた方々こそが、真正の勇者であり、真実の勝利王であると思っています。学会のいかなる幹部よりも、強盛な信心の人であり、創価の大英雄です。
 今日の総会に出席させていただくのも、その皆さんを賞讃するためであり、それが、会長である私の務めであるからです」
 島で広宣流布の戦いを起こすのは、決して、生易しいものではない。島には、それぞれの風俗、習慣、伝統があり、それを人びとは、宗教を考えるうえでも尺度としてきた。
 そのなかで学会員が誕生する。島民は、初めて、自他共の幸福と社会建設をめざす創価学会という躍動した宗教と出合う。当然、それは、これまでの宗教の範疇に収まるものではない。それゆえ、誤解、偏見が生じる。

                         

小説「新・人間革命」

2015年07月31日 16時28分59秒 | 新・人間革命
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 7月31日(金)より転載】

【勝利島10】

 山本伸一は、沖縄のメンバー一人ひとりに視線を注ぎながら、話を続けた。
 「私は、沖縄の皆さんが、自ら行動を起こし、学会本部に来られたということが、最高に嬉しいんです。
 誰かが、何かしてくれるのを待つという受け身の姿勢からは、幸福を創造していくことはできない。そうした生き方では、誰も何もしてくれなければ、結果的に悲哀を募らせ、人を憎み、恨むことになってしまう。実は、そこに不幸の要因があるんです。
 仏法は、人を頼むのではなく、“自らが立ち上がって、新しい道を開いていくぞ!”という自立の哲学なんです。自分が変わることによって、周囲を、社会を変えられると教えているのが、仏法ではないですか!
 いよいよ皆さんが、その自覚に立たれて、行動を開始した。本格的な沖縄の広布第二章が始まったということです。発迹顕本です。私は、沖縄の前途を、未来の栄光を、心から祝福したいんです。おめでとう!
 では、記念に写真を撮りましょう。そのために来ていただいたんです」
 記念撮影は、四グループに分かれて行われた。伸一は、先に女性二グループと、続いて男性二グループと記念のカメラに納まった。
 撮影が終わると、彼は尋ねた。
 「皆さんは、全員、今晩の離島本部の総会には、参加されるんですね」
 「はい!」と元気な声が、はね返った。
 「私も、出席させていただきますので、また、お会いしましょう」
 歓声があがり、笑みの花園が広がった。
 伸一は、創価婦人会館を出て歩き始めた。本部周辺の道には、離島本部の総会に参加するメンバーが行き交っていた。彼は、会う人ごとに、声をかけ、あいさつを交わした。
 「遠いところ、ご苦労様です」「総会には伺います」「ようこそ。お名前は?」……一瞬の出会いが、一言の励ましが、その人の一生の原点になることがある。励ましの声をかけることは、心に光を送ることだ。


■語句の解説
 ◎発迹顕本/「迹を発いて本を顕す」と読む。仏が仮の姿(垂迹)を開き、その真実の姿、本来の境地(本地)を顕すこと。
                                                           

                          

小説「新・人間革命」

2015年07月30日 19時08分22秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 7月30日(木)より転載】

【勝利島9】

 離島本部総会に参加する沖縄の同志は、那覇に集まり、「沖縄支部長会」の参加者と合流し、朝、飛行機で東京へ向かった。
 メンバーのなかには、船で石垣島や宮古島に出て、そこから飛行機で那覇まで来て、一泊した人もいた。
 沖縄の同志は、羽田空港から五台のバスに分乗し、正午過ぎ、学会本部に到着した。
 ボストンバッグを手にしたメンバーが、学会本部の門を入ると、副会長の青田進や山道尚弥をはじめ、多くの幹部が左右に並び、大拍手で一行を歓迎した。
 「こんにちは! お疲れさまです!」
 その励ましの言葉に、疲れは吹き飛んだ。
 沖縄支部長会は、学会本部の師弟会館で開催された。皆、創価学会常住の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊に、沖縄広布を誓い、厳粛に祈りを捧げた。
 婦人部長の藤矢弓枝、副会長の関久男・秋月英介があいさつに立ち、遠路、学会本部までやって来た労をねぎらい、沖縄の新しい出発を祝福した。
 そのころ山本伸一は、六月にオープンした信濃町の創価婦人会館(後の信濃文化会館)にいた。支部長会終了後、沖縄の同志をここに招いて、一緒に記念撮影をしようと、一足先に来て、待っていたのである。
 メンバーは、支部長会を終えると、担当の幹部から、創価婦人会館に移動するように言われた。本部から徒歩二、三分のところにある、茶系のタイル壁に緑の屋根瓦の瀟洒な二階建てが、その建物であった。
 館内に入ると、伸一が満面に笑みを浮かべて、姿を現した。
 「遠いところ、ようこそいらっしゃいました! お待ちしていました。
 皆さんは、沖縄の平和のために、広宣流布に立ち上がり、苦労し、苦労し抜いて、戦ってこられた。大使命をもった地涌の菩薩であり、広布の大功労者です。私は、仏を敬う思いで、迎えさせていただきます。それが、人間として、仏法者として当然の道です」
                                                                 

革心36/小説「新・人間革命」

2015年06月10日 07時23分13秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月10日(水)より転載】

【革心36】

 雨花台烈士陵園で山本伸一の一行は、殉難の記念碑に献花を行った。赤やピンクのバラの花で飾られた花輪を持った二人の訪中団メンバーを先頭に、伸一たちは、記念碑に向かって石畳の上を歩いていった。

 碑には毛沢東による、「死難烈士万歳」の文字が刻まれていた。花輪が供えられた。

 一行は、尊い命を散らせた烈士たちをはじめ、日中戦争で犠牲になったすべての人びとの冥福を祈って、唱題した。南京の大地に、晴れ渡った空に、音吐朗々と、題目の声が響いていった。

 唱題する一行を、ここを訪れていた人びとが、遠巻きにするように見ていた。

 唱題が終わると、伸一は、その人たちに歩み寄って、「〓好!」(こんにちは!)と声をかけ、笑顔を向けた。

 すると、ニコニコしながら瞳を輝かせ、口々に「〓好!」と応える。

 日本人が南京を訪れ、烈士の碑の前で合掌し、唱題する姿に、深く感銘したようだ。伸一たちが、手を差し出すと、大人も、子どもも、笑みを浮かべて握手を交わす。

 亡くなった人を悼み、冥福を祈る心に国境はない。祈りの心は、人間を結ぶ。

 一行を案内してくれた江蘇省の関係者が、「創価学会の山本会長を団長とする、訪中団の皆さんですよ。山本先生は、中日友好の橋を架けられた方です」と紹介した。

 和やかな懇談の輪が広がった。

 伸一は言った。

 「私たちは、烈士の方々をはじめ、戦争で犠牲になったすべての方々の冥福を祈らせていただきました。また、南京の皆さんが永遠に幸せであってほしいと祈りました。

 皆さんのなかには、戦争で、ご家族、ご親戚を亡くされた方もいらっしゃるでしょう。私も、大好きな長兄を失いました。戦争は悲惨です。残酷です。戦争など、絶対に起こしてはならない。

 そのために、私は、日中の平和と友好に、命を懸ける決意でおります」



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革心35/小説「新・人間革命」

2015年06月09日 18時56分54秒 | 新・人間革命
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月9日(火)より転載】

【革心35】

 南京に到着した翌日の九月十六日は、朝から美しい青空が広がっていた。山本伸一をはじめとする訪中団一行は、午前十時過ぎ、市内にある雨花台烈士陵園へ向かった。雨花台には、こんな言い伝えがある。

 ――六世紀初頭、この丘で法師が経を読誦したところ、天から花が雨のように降ってきたことから、雨花台と呼ばれるようになったというのである。

 燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びた、木々の緑がまばゆかった。雨花台という、美しい名とは反対に、ここは、南京の国民党政府に抗して、新中国の建設に命を懸けた多くの烈士たちが、処刑された地である。

 陵園の責任者は、凄惨な雨花台の歴史を一行に説明した。

 「一九四九年(昭和二十四年)の新中国建国までに、処刑されていった烈士は、十万人以上になります。

 さらに三七年(同十二年)には、日本軍が南京に侵攻し、たくさんの犠牲者を出すという、凄惨な出来事が起こりました。街も焼かれました。中国人民にとって雨花台は、人びとの血で染まった、忘れ得ぬ地なんです。

 しかし、これは、一部の軍国主義者たちのやったことであり、日本人民には関係ありません。また、中国は確かに多大な犠牲を払いましたが、この戦争は、日本人民にも多くの悲劇をもたらしました。

 中日両国の間には、戦争という不幸な時期がありましたが、中日二千年の文化交流の歴史から見ると、それは、短い一瞬の期間にすぎません。両国は、平和友好条約の調印後、さらに信頼を深める努力を重ねていくならば、必ずや世々代々、友好的におつき合いしていけるものと確信しています」

 彼は、淡々とした口調で語った。

 伸一は、心深く思った。

 “こうした歴史から絶対に目を背けず、今こそ、万代の日中の平和と友好の道を開くことだ。それが、この痛ましい犠牲者への追悼である。それが、その殉難に報いる道である”







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記事のタイ正義37/新・人間革命  

2014年02月14日 19時47分51秒 | 新・人間革命

      
      小説「新・人間革命」

【「聖教新聞」 2014年(平成26年)2月14日(金)より転載】


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 正義37(2/14)

 山本伸一は、個人に即して、創価学会の合唱運動、“合唱祭”の意義を語っていった。

 「“合唱祭”に出演された皆さんは、歌の練習に取り組むなかで、苦手な課題を克服しようと懸命に努力されてきた。それを通して、挑戦の心を育んでこられた。

 また、合唱というのは、自分が上手ならば、それでいいというものではない。大事なのは全体の調和です。したがって、最高の合唱にしようと努力していくなかで、広宣流布への異体同心の団結も培われていきます。

 さらに、皆さんは、“合唱祭”の大成功をめざして、真剣に唱題してこられた。その題目は、信心向上の力となります。自身の大生命力を涌現させ、幸福境涯を開く偉大なる功徳の源泉となっていきます。

 そして、家事や仕事、学会活動をしたうえで、忙しいなか、合唱の練習に通われた。

 それは、有意義な時間の使い方を身につけ、すべてをやりこなす力を引き出す訓練になったことでしょう。

 私どもは、何があろうが、どんな宿命の試練にさらされようが、“希望の歌”“勇気の歌”“喜びの歌”を、さわやかに、さっそうと口ずさみながら、幸せの航路を、勇躍、進んでまいろうではありませんか!」

 文化合唱祭のあと、伸一は、会場を東大宮会館(現在の南大宮会館)に移して、文化合唱祭に招待した十人ほどの僧侶と懇談した。

 彼は、学会は日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布をめざし、重層的な布石をしながら、一途に折伏・弘教の大波を起こしてきたことを語った。そして、今後も、力の限り宗門を守り、僧俗和合して広宣流布、令法久住のために進んでいきたいと訴えた。

 また、僧侶方には、仏の使いである健気な会員を、慈悲の衣で包み込むように、大切にしていただきたいと念願したのである。

 僧の反応は、さまざまであった。頷く僧もいれば、下を向いて視線を合わせぬ僧などもいた。しかし伸一は、心の扉を開こうとするように、誠意をもって語りかけていった。



■語句の解説

◎令法久住/「法をして久しく住せしめん」と読む。法華経見宝塔品第十一の文。未来にわたって、妙法を伝えていくこと。



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正義36/新・人間革命       

2014年02月13日 05時33分19秒 | 新・人間革命

      
      小説「新・人間革命」

【「聖教新聞」 2014年(平成26年)2月13日(木)より転載】


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 正義36(2/13)

 妙楽大師の言葉に、「礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」(御書一八七頁)とある。

 「礼楽」とは、「礼儀」と「音楽」のことで、中国の伝統的な生活規範である。「礼」は、行いを戒め、社会の秩序を生み出し、「楽」は人心を和らげるものとして尊重された。「礼楽」とは、広い意味では「文化」といってよい。

 中国では、この「礼楽」が流布していたために、人びとが真の道である仏法を理解することができたというのである。

 キリスト教を見ても、それを土壌にして生まれた音楽や美術等々の文化が、キリスト教への関心や共感を促す力となっていった。

 また、文化・芸術には、民族や国家を超えて人間を魅了し、人と人とを結ぶ力がある。優れた音楽が、世界の多くの人びとに愛され、人間の融和、心の結合の力となってきた例は少なくない。

 山本伸一は、埼玉文化合唱祭で、それらを踏まえて、学会の推進する文化運動の意義について言及していったのである。

 「埼玉の皆さんは、全国で開催される“合唱祭”の先駆けとして、見事な歌声を披露してくださった。心より御礼申し上げます。

 信仰によって、わが生命を躍動させ、奏でる楽の音も、合唱の歌声も、万国共通の言葉であり、万人の心を結ぶ〝文化の懸け橋〟となります。

 これから未来にわたって、日蓮大聖人の仏法を、どのように人びとの心に響かせ、世界に開いていくかという視点に立つならば、こうした運動が、その推進力になることは間違いありません。

 また、出演した方々は、この文化合唱祭に、自身にとっての大きな意義を発見し、信心の跳躍台としてこられたことと思います。

 学会の合唱祭や文化祭の重要な意味は、それを通して一人ひとりが信心を磨き、友情を深め、強い確信に立ち、発心の契機にしていくことにこそあります。自身の成長がなければ、華やかな催しも虚像にすぎません」


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正義35/新・人間革命

2014年02月12日 04時35分03秒 | 新・人間革命
      
      小説「新・人間革命」

【「聖教新聞」 2014年(平成26年)2月12日(水)より転載】


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 正義35(2/12)

 西欧の文化・芸術は、キリスト教という精神の水脈から創造の活力を得てきた。また、日本にあっても、仏教のもと、絢爛たる白鳳文化が花開いたことは、よく知られている。

 では、なぜ、宗教の土壌の上に、絵画や彫刻、音楽等々、文化・芸術が開花するのか。

 アメリカ・ルネサンスの思想家エマソンは、「最も美しい音楽は、生命からほとばしる慈愛と真実と勇気に満ちた人間の声の中にある」(注)と述べている。

 文化・芸術は人間の生命の発露である。その生命を磨き、潤し、希望と歓喜の泉にしていく力こそ、宗教であるからだ。

 日蓮大聖人は仰せである。

 「迦葉尊者にあらずとも・ま(舞)いをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立ってをど(踊)りぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をど(踊)りてこそい(出)で給いしか」(御書一三〇〇頁)

 釈尊の弟子である迦葉、舎利弗は、法華経で成仏の法を領解し、喜びに舞い踊る。また、地涌の菩薩は、末法の妙法流布の使命を担おうと、喜び勇んで、踊りながら出現しているのである。生命からほとばしる、その大歓喜の表出、表現こそが、文化・芸術の源泉にほかならない。

 また、大聖人は「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(同七八八頁)と言われている。自行化他にわたる南無妙法蓮華経の実践は、慈悲の生命を、勇気を、大歓喜を、わが胸中に涌現させる。創価の同志は、日々の学会活動を通して、それを実感してきた。

 その生命の発露として、新しき人間文化を建設し、広く社会に寄与することは、仏法者の社会的使命といってよい。優れた文化・芸術を生み出すことは、仏法の偉大さの証明となる。また、その文化・芸術への共感と賛同は、大きく仏縁を広げていくことになろう。

 ゆえに山本伸一は、「広宣流布とは“妙法の大地に展開する大文化運動”である」と定義してきたのだ。学会の合唱祭や文化祭、芸術祭も、その一環にほかならない。


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正義34/新・人間革命

2014年02月11日 20時04分50秒 | 新・人間革命
      
      小説「新・人間革命」

【「聖教新聞」 2014年(平成26年)2月11日(火)より転載】


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 正義34(2/11)

 山本伸一は、僧たちの学会への執拗な誹謗・中傷に、広宣流布を破壊することになりかねない魔の蠢動を感じた。
 彼は、“今こそ会員一人ひとりの胸中に、確固たる信心と、広布の使命に生き抜く創価の師弟の精神を打ち立てねばならない”と強く思った。
 また、“自分が直接、各地の僧と会い、誠意をもって、率直に対話し、学会について正しい認識、理解を促していこう”と決意したのである。
 この一九七八年(昭和五十三年)の春から、全国各地で“合唱祭”が企画されていた。
 四月十五日、伸一は、埼玉県・大宮の小熊公園で行われた埼玉文化合唱祭に出席した。これには、県内にある宗門の寺院から僧侶を招待していた。
 桜花に蝶が舞い、小鳥がさえずる、春うららかな日であった。「理想郷・埼玉に歓喜の歌声」をテーマに掲げた文化合唱祭は、人びとの幸福と社会の繁栄のために、喜々として信仰に励む同志の、晴れやかな希望の出発を飾る舞台となった。
 新女子部歌の「青春桜」をはじめ、「森ケ崎海岸」「母」「厚田村」など“歓喜の歌声”が、春風とともに樹間に響き渡った。
 伸一は、この日のあいさつで、広宣流布と文化について語ろうと思っていた。
 本来、文化・芸術と宗教とは、切り離すことのできない、不可分の関係にある。
 文化・芸術は、宗教という土壌の上に開花してきた。宗教によって人間の生命の大地が耕されてこそ、文化・芸術の大輪が咲く。
 英国の詩人で批評家のT・S・エリオットは、「広く一般に受け容れられている誤りは、文化というものが宗教なくして保存され、伸張され、発展せられることが可能であるという考えであります」(注1)と論じている。
 また、フランスの女性哲学者シモーヌ・べーユは、「すべて第一級の芸術は本質からして宗教的なものである」(注2)との箴言を残している。

■引用文献
 注1 「文化の定義のための覚書」(『エリオット全集5』所収)深瀬基寛訳、中央公論社  注2 「重力と恩寵」(『シモーヌ・ヴェーユ著作集3』所収)渡辺義愛訳、春秋社

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正義28/新・人間革命

2014年02月04日 08時08分02秒 | 新・人間革命
     
      小説「新・人間革命」

【「聖教新聞」 2014年(平成26年)2月4日(火)より転載】


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 正義28(2/4)

 学会を誹謗する僧の大半は若手であり、世間の常識に疎く、態度が横柄な者も少なくなかった。それでも学会員は、彼らを守り、寺のために尽力してきた。
 彼らが、学会への憎悪を募らせ、理不尽な誹謗をエスカレートさせていった背景には、学会を裏切っていった“背信の徒”の暗躍もあった。弁護士の山脇友政である。
 学会員であった彼は、弁護士として学会の法的事務などに携わるようになった。すると、次第に自分の法的知識を鼻にかけ、先輩幹部を見下し、誰の言うことも聞かなくなっていった。慢心に毒されていったのだ。
 「人間の精神は慢心へと傾きやすく、慢心は精神を腐敗させる」(注)とは、フランスの作家ジョルジュ・サンドの警句である。
 山脇は、学会の仕事だけでなく、宗門の法的な諸問題にも関与するようになり、宗内に人脈を広げていった。
 その一方で、弁護士の立場を利用して金儲けを企て、会社経営にも手を出していく。学会活動もしなくなり、信心を失い、金銭欲に翻弄され、拝金主義に陥っていったのである。
 しかし、やがて、杜撰な経営によって事業は破綻し、莫大な負債を抱えることになるのだ。行き詰まった彼は、虚言を重ね、さまざまな事件を起こし、遂には、社会的にも厳しく裁かれていくことになる。
 山本伸一は、前々から、山脇のことが心配でならなかった。信仰の正道を歩ませたかった。真剣に信心に励むよう、諄々と諭したこともあった。時には、厳しく指導をしたこともあった。
 だが、慢心に侵された彼は、むしろ伸一を疎ましく思い、指導されるたびに、恨みと憎悪を募らせていったのだ。
 山脇は、信徒団体である学会は、どんなに大きくとも、所詮は、宗門の下にあり、屈服せざるを得ない存在であると考えていた。そこで宗門に取り入り、自分が学会との窓口となり、宗門の権威を利用して、学会を操ろうと画策したのである。

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