千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

もっと昔も日本は広かった・・

最近、歳とったけんかそろそろ夜明けかな?て目覚めても
まだ22:00~23:00頃にいっつも目が覚めてしまいます。
それから3:00頃まで寝られませんと・・・

そいけんBLOG書きよります。

それと昔から見よった夢ば最近また良く見ます・・・
その夢、何パターンかありますっちゃんね。
「大きな抜け出せんホテル編(近くに大学があり)」
「列車で出張編」「高い山の峠にある村落編」
それと「我が家編」・・
列車編ではいつも同じ海岸線からある駅にたどり着きます。
大きな駅です。その駅から歓楽街への道で迷うて飲み屋へ
やっとホテルに帰ったらホテルの中で迷うって言うパターンもあります。

最近は家編ばよく見ます。いつも場所も間取りもおんなじとです。
ばってんが現世で実際においしゃんが建てた家とはあきらかに違うとです。
登場人物は現世で暮らした家族や知人。
たぶん前世の人生での体験でっしょうね
「あ!この場面前にあった!」デジャブて言うと?
それとはちょこっと違います。夢・・・やけん

このお話はこれだけ・・

さて前回、日本は広かったて書いたばってんが
前回は明治以後の日本が国力つけて進出した結果のこと。

ばってんがその前、古代でちゃ日本は今よりちょっと広かったってお話です。
邪馬台国やらの頃。

1世紀~3世紀ごろ朝鮮半島の南半分(現韓国の部分)は
「三韓」て言う3つの集団または地域」がありました。


朝鮮半島南部に居住しとった人たちば韓て言い、
言葉らや風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓、弁韓、辰韓ば
三韓って言います。

その頃倭人は朝鮮半島南部でちゃ暮らしよったらしいとです。
「日本書紀」にも中国の「三国史」にも書かれとります。
また「魏志倭人伝」にも倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)。
または「韓は南は倭と接する」て書いてあります。

「魏志倭人伝」には倭人は海に潜るとが得意で争いはせんし
民主平等で入れ墨ばしとるて倭人の生活様式も書かれとります。
年功序列で服は筒状の布の首と腕部分に穴の空いたものって。

辰韓で倭人は濊(わい)族に交じり採掘しよったばってんが
辰韓の男女は倭人と同じ文身(入れ墨)ばしとったことから
すでに血の交わりもあったとかもしれませんね。

「魏志倭人伝」に書かれた倭人の生活様式は実際に
半島の倭人ば見て書かれたとでしょう。
その倭国の当時の首都?が「邪馬台国」で
そこは船行何百里云々で場所がいまだに定かではないとです。
現在、韓国からは日本式の支石墓やら前方後円墳も発掘されとるけん
倭人が住んどったとは歴史上明らかです。

その頃、南方では台湾も倭寇の基地として倭人が住んどりました。

その後、半島は南部には新羅と百済て国が出来ました。
実質倭国が実権握っとったらしく人質もとっておりました。
半島の一番南には倭人の伽耶(加羅)任那国も位置しとります。
任那やらは昔教科書でちょろっと見たことあるでしょう?

遣隋使・遣唐使て言うごと当時倭国と中国は隋の時代から交易がありました。
当時から技術が優れた倭国は唐に3個の「勾玉」ば献上しとります。

※写真は現代に作られたアクセサリーです。

鉄より硬いて言われる翡翠ば当時から
こげん丸くつるつるに加工して穴まであける技術があったとです。
当時の中国は日本のごと民から年貢ばとる政策は無く
交易の通行税みたいな税金ばとりよりました。

そこで今のソウルと平城の場所にそれば徴収する
要塞みたいなとば作って半島から中国に至る処で悪さする
濊(わい)属から通行人ば守りよりました。
濊属とは前に書いたごと
中国の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省から北朝鮮にかけて、
北西から南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の種族。
※ウイキペディアより・・

遣唐使がわざわざ船で危険な海路ば使ったとも
この半島の濊属ば避けたても言われてます。

その後、663年倭国の目ばくぐって新羅が百済に
攻め込みます。倭国は百済に3万の援軍ば送ります。
これが「このいちへようこそ」の本編歴史編に書いた
「白村江(はくすきのえ)の戦い」です。
結果は歴史の事実、百済倭国の連合軍は敗北
以後、倭国は対馬海峡以北は手放しました。

ちなみに「倭」が「日本」てなったとが700年代て言われます。
「古事記」では倭国「日本書紀」では日本となってます。
ヤマトが大きく変わり始めた頃ですね。

当時、本土九州も攻めてこられるかもしれんて言うて
太宰府の前に水際の盾として水城堤ば作り
山の上には「大野城」ば築き能古島には「防人」ば配置しました。
これは現在も残ってます。

この左側が博多湾方面で右側が大宰府政庁跡です。

博多湾に浮かぶ「能古島」には現在も防人の「狼煙跡」が残ってます


この時は攻めてこんかったばってんがその後、13世紀の初めには
中国まで席巻したモンゴルが海を越えて日本に攻めてきます。
1274年と1281年の元寇です。この当時はある程度水際で鎮圧しとります。

この時、日本は「神風」に守られたっちゃ無うて
九州の豪族ば中心とする国防軍が守り切ったとですよ!
モンゴル軍には疫病もあったていいます。
もともと元は海が無かけん朝鮮人に船作らせてやってきたとも
動員された高麗軍たちが混じってます。

日本軍はウ〇コば煮詰めて投げつけたって話も
歴史秘話ヒストリーで言いよりましたよね。
盾ば使わん日本の武士たちは流儀の違う元軍の戦い方に
戸惑います。「やあやあ我こそは」の正々堂々とした
武士の戦いは通じません。後ろからでちゃ切りつけてきます。
結構な被害はでたばってんが何とか守り切ります。
ばってん博多までの島々、壱岐対馬では残忍なことば
さんざんやってます。
最初の元寇と後の元寇の間に一生懸命国防策ば練ったとです。
当時は神様ば信じとったけんたまたま通りかかった低気圧ば
「神風」て言うて日蓮宗が蒙古退散に結び付けたとです。


現在も残る西新の「元寇防塁跡」です。

その後国内の長い戦国時代ば経たプロの武士たちは
明治以後、日本国軍に引き継がれ日本は経済力、軍事力ばたくわえ連戦連勝。
ばってんがアジアの独立のために立ち向かった
先の大東亜戦争でたった一度の敗北で今に至ります。
戦後日本領土やった台湾も手放してしまいます。

歴史は面白い・・・・
のちの世に今の日本はどげん教科書で説明されるとかな?

それにしても台風10号心配です。

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