千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

昔はこうやった・・

いままで数回「博多山笠記録(昭和50年発行)」から
記事書いてきたばってん今回はその他もろもろの最終章・・
内容に明確な時代が書いてないけんいつ頃の話かは
正確にはわからんばってんが昭和50年に聞いた話の内容やけん
古くは大正末期や昭和初期から戦前までの時代背景やて思います。
この本読みよったらその時代の博多の人たちの生き生きとした
生活が思い浮かべられるとはおいシャンだけや無かて思います。

いろいろかいつまんで書き出してみます(^^♪

【願立て、願ほどき】
当番町ともなれば、若手・中年・年寄みなそれぞれの階梯(年齢階梯制度)に
応じての仕事があり、真剣に取り組まなければならぬので、自然、滞りなく
役目が果たせるよう、神に祈るのである。

今と違い昭和の初期までは日本人も信心深かったとです。
日本の歴史はこの信心で文化が栄えて来た歴史があります。
「言霊(ことだま)」てよう言いますね。
悪いことば口に出すとそれが現実になる・・・
昔の人はそれば信じとったとですばってんがそれは今も・・・
「明日からハワイに旅行行くっちゃん・・」
「天気の悪かけん飛行機大丈夫や・・」
「縁起でもないこと言いやんな・・」
今の人は信心は深う無かばってんがやっぱ心の奥底にはそればもっとりますもんね。
そいけんバリバリの舁き手は「胡瓜食うな」ば実践しますもんね(^^♪
女人禁制・・はよう知らんけど(^^♪
これは今の時代には差別て言われるししてもかえって元気の出るかも?
ばってんが舁き手の中には一途に守る輩は今もおります。
おいしゃんはどげんやったかって?あぃその辺は信心深うなかったかな(^^♪

以前は当番町の時にはあちこちの神社に願立てに行きよったごたります。
宮地嶽神社、愛宕神社、石穴様、水鏡天満宮等々
今も中州流は朔日は「志賀神社」に行きよりますね・・
おいしゃんがこまか頃は男山の飾りの頂の三神額に
「愛宕神社」やら乗せてあったと覚えとります。
今は櫛田宮・祇園宮・大神宮ですばってんが・・・・
ちょっと前まで町によってはそれが残っとったとかもしれません・・

【事故の処理】
綱場町では、これまで怪我人二十名、死亡は五名がでているが、
このようなとき、当番町は、手拭一本で「お詫び」が済んだ。

昔は死によったとですよ・・・・
明治31年「九州日報」の記事には四番山笠東町流が
古門戸町で死亡事故ば起こしたてあります。
その汚れた山台ば承天寺に持ち込んだて言うことから
今の「山笠施餓鬼棚説」が出来上がったとです・・・・
今は死ぬことはないにしてもそれは本人の恥ていうとは
今も変わりありません。
本人の不手際で血流したら翌日から山に出ることば控える。
これは今も一緒です。血の汚れば嫌う神事やけんです。

【服装】
幼児は神紋の入った「胸かけ」をした・・・・
これは今の水法被にも言えますね(^^♪
大人もいろいろな材質の締め込みば用いよったらしいけど
中年くらいまでは赤であったげなです。
麹屋番あたりは商人ばかりで、「脛白」であったので、
自然脚絆を用いた云々。
「こうかりもん」は脚絆なし、腹巻せず・・・
この辺は六代山笠振興会会長土居流濱小路の石橋 清助さんは
実践されとりましたね(^^♪
縞の法被や長法被は「小便買い(肥を買い歩く人)」の
ようだと嫌われた云々。
この時代は農家も人糞肥やったとがわかりますね(^^♪

【その他】
いつの時代かは定かでないですが・・・・
追山時には三か所櫛田神社の前に「祝部家(旧宮司宅)」万行寺
東長寺の入口の三か所に「招き台」があって、山笠が東長寺のところに来たとき
連絡をして次の山が出た・・てあります。
有名な「福神流雷鳴事件」。
時間前に舁き出した福神流ば見て我も我もて太鼓無視して舁き出した
流は東長寺回って雪隠詰めになっったそうです。
そらそうくさ、承天寺に入った山が出てくるまでは次の山は
舁き入れられんですもんね(^^♪
現在は一番山が承天寺回って東町筋に出てくるころ二番山が
大博通りに出てくるとが見受けられます。
このあたりが一番山足が速いところでもありますね・・・・・
滑るように大博通に出て東長寺の清道に入ってきたら
「おっ今年は速かばぃ!」ってうかがえるとですよ!

その昔、追山が始まった時、各流が速さば競うためそれまでの追山コースの
東長寺・承天寺ば端折って回ったって・・・・
それに異を唱えたとが承天寺の住持の「嘉永の由緒書」
寺社奉行に「この頃うちに来んとですバイ、昔から来よったとぃ」って
これにより東長寺・承天寺にパン食い競争のごと旗取箇所が設けられた
って歴史もありますとよ(^^♪

【加勢町】
昔は七流の制度が厳重で、新しい流の出現はむつかしかった。
加勢人は、七流以外の流から出るものや近隣の田舎から呼ばれるもの、個人の意思で
参加するものである。
文献でも「加勢町の若者は台上りができない」とある。
その昔は大浜は東町流の加勢町。中州は大黒流の加勢町。
大黒流は現在加勢町制度は無かばってんが他の流れでは今も
それが残っとる流もあります。

福岡の鍛冶町から来た(大黒流下対馬小路)
鍛冶、住吉から(蔵本町)
明治39年に山笠を建てぬことになってから、呉服町に加勢に行った(福神流)
「脛白」ばかりで、わずかしか担い手がいないので、厨子、赤間、桶屋町から
雇ったが、後には瓦町、吉塚、堅粕からも雇った(呉服町流)
大浜一丁目は恵比須に加勢をした。

この辺の記事は戦前の博多の町の事情がくみ取れて生生しいですね。
須の三のおいしゃんと同期で取締した「民ちゃん(おいしゃんの二つ下)」は
大黒流も戦後一年だけ神屋町の加勢受けてその時は
大黒の流舁では神屋町に舁きいれた記憶があるて聞きました。
おいしゃんそれは記憶にありませんばってんね・・・・

昔のこと見て今に通じることあり・・・
それもちゃんとした所以があっての仕来りやけん大事にせないかんですね・・
昔も今も博多んもんは祭り好き・・・・

桜が散って過ごしやすうなったらもう松囃子・山笠のことば
考えてうずうずしだします(^^♪

今年は松囃子は受け取りやんかいさ・・・
ドンタク終わったら「面送り」やんもう11年経ったっちゃね

あん時の面送りの様子です(^^♪
これは当番終えて送りの映像・・
FURUSATOHAKATAどんたく最終行事・博多どんたく松囃子・大黒流・面送り2012(博多座前)


悠介・・いよいよやぞ頑張らんばいかん
今回あたきゃゆっくりみよるだけ・・・・・

チャンチャン

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