ゴジラ-1.0では神風特攻隊の生き残りが主人公です。
今回はこの大きなうぬぼれの間違い
挙句の果ては国ば滅ぼした神国日本の「神風」
その大元のお話です。
今から七百年以上前の鎌倉時代、あの鎌倉殿のちょっと後
日本に未曽有の危機が訪れました、そう元弘の役です。
当時、世界で一番勢力ば誇ったモンゴル帝国が攻めて来たとです。
蒙古て言うとはモンゴルの中国語読みです。そのモンゴルが
国号ば「大元」て改めたけん元寇て言うとります。
寇(あだす)は外から侵入して害を加える賊と言う意味です。
元は当時宋の生き残りの南宋軍に手を焼いておりました。
内陸国の元は海上貿易のルートが欲しかったとです。
これはしゃにむに海上制覇権ばとろうと躍起なC国に似てますね(^^♪
そこでマルコポーロの見て来たような大ウソで黄金の国ジパングと呼ばれて景気の良か
ニッポンにうちの属国になって一緒に南宋ば滅ぼそうやと持ち掛けてきます。
ばってんが当時南宋は南宋貿易の相手で友好国です。
フビライの申し出に完全無視ば決め込むとですよ・・・・
おまけに元からの国司ばことごとく殺してしまいます。
そこで怒ったフビライは大軍で攻めてきますが
高麗人・女真人・漢人・蒙古人の寄せ集めです。
対馬・壱岐ば残虐な行為で蹴散らし一気に博多・箱崎も攻め落とされ
博多は火の海にされてしまいます。
しかしその夜の元軍の作戦会議で日本軍の意外な強さに高麗が撤退ば
進言します。度重なる元軍の出兵命令で国も疲弊しとるし
ニッポンばよく知る高麗は海を渡っての進軍は元軍にとっても
初体験であり、副大将も矢で重傷ば負うたけんです。
「今回はこのくらいにしといてやろう」と撤退ば決めます。
ところがこの時、玄界灘に暴風雨が吹き荒れます。
軍船ていうたっちゃぁ高麗が仕方なく作った急造船ははひとたまりもなく沈みます。
軍の半数が戦没したに違いないと言われとります。
びっくりしたとは日本軍です。
水城辺りまで退き夜が明けたら元軍が一人もおらんやないですか?
偵察ば出して志賀島あたりで敵の船が漂着しとるとば見て初めて
元軍の遭難ば知りました。
日蓮は自分が神風ば呼んだて言うて大騒ぎ・・
すぐにでも再攻撃してくるはずやったとぃ元軍もお家の事情で
次にやってきたとは七年後です。この間幕府は博多の海岸線に全国の御家人に
割り当てて西は今津から東は香椎まで乱杭と石築地ば積み上げ
「元寇防塁」ば作って防御しておりました。
次の弘安の役では蒙古軍、漢人、高麗人の東路軍と
この頃元に滅ぼされた南宋の兵を中心とした江南軍の
二手でやってきますがいやいや駆り出された江南軍はなかなか出発せず
博多湾の合流になかなかやってきません。
しびれば切らした東路軍は独自で博多に攻め入りますが防塁ば見て
こらやおいかんって言うことで志賀島に上陸します。
そこに日本軍はあらゆる戦法ば仕掛け夜討ちも含めて三日間
たまらん東路軍はいったん平戸に逃げて行きそのごやっとやってきた
江南軍と鷹島で合流します。なしてか元軍は博多ば攻めんでそこば動かず
ひと月に渡りそこで戦闘を繰り返します。
そんな頃、旧暦の閏七月の朔日(現在の8月17日)、九州は台風シーズンですたぃ
鷹島の海ば埋めとった元軍の船が一夜にしておらんごとなりました。
後世、これば神風て言うて我が国は神国で神風が吹いて国難防ぐて信じられてきました。
日蓮は相変わらずあたきが神風呼んだで言いよりましたばってんが
翌年死んでしまい法華経の信仰は幕府の容れるところとはなりませんでした。
時の執権「北条時宗」もこの三年後34歳の若さで急逝します。
武をもって徹頭徹尾、元に対した短い人生でした。
この自然の偶然がたまたま起こらんかったらこの時日本は滅んでます。
いくら日本の武士が抗っても元軍が再度攻めてきたらやられたはずです。
最近の科学は凄いですね(>_<)
九州大学の故「真鍋博士」は樹齢数千年の屋久杉の年輪から当時の
気候ば調べました。なるほどそのスパン生きとるとは屋久杉だけですもんね。
年輪間の班痕ばコンピュータ解析したけ結果
弘安の役の台風は中心気圧950ヘクトパスカル、瞬間最大風速55.6mに
たっしとったことがわかっとります。凄かですね~
伊万里湾には一晩中風速30mの強風が吹いたわけです。
そら当時の船やったらひとたまりもなかったろうにこて。
それから約300年、今度は同じようなとこから逆に唐入りです。
朝鮮の人たちは昔からあちらこちらから攻められてやおいかんですね。
現在だっちゃ台風は甚大な被害ばもたらします。
嫌と思うたっちゃやってくる決して神風やら言うもんではありません。
今回、そげなことば書いてみました。