千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

七流と納当番

現在、博多祇園山笠は以下の七流が参加しとるとはご存じの通り。
「土居流」「大黒流」「東流」「中洲流」「西流」「千代流」「恵比須流」
※今年の当番順。この順番は「中西千恵土大は東」て覚えたらよございますよ・・
江戸時代の山笠は旧暦の6月1日から15日の期間。
明治時代に何回か新暦の6月または7月に行われよりましたが
明治44年(1911年)から現在の日程になっとります。

現在の「流」は山笠・松囃子の運営単位としてのもんですばってんが
もともとは100ケ町弱あった博多の町ばそれぞれのブロックに分けた
自治組織やったとですね。各流は町の集合体です。
「流」は近世中頃には厨子流やら新町流やら増えていきますばってんが
最初に太閤さんが決めたとが博多七流ていう七つの流で
この七流で山笠・松囃子ば運営してきました。
のちに増えた流は山笠では加勢町として参加しよったごたります。
他にも近隣の村から加勢人ば雇うて人数ば確保しよりました。
商人の町は肉体労働で力ば持つ加勢人ば雇いました。
畑仕事ばする加勢人に比べ色白やった博多町人は白い脛ば
隠すごと脚絆ばつけるごとなったそうです。(すねじろ)
中洲(住吉神社管内)に人が住み始めてからは大黒流に
加勢町として参加しよりました。
そいけん今でちゃ大黒流と中洲流はその組織組やら似とります。

江戸時代から昭和初期まで博多の年中行事はこの流ごと又は
それぞれの町ごとに行われよりました。
先日書いた正月の「玉せせり」はじめ「ほうけんぎょう(どんど焼き)」
「千灯明」など。
山笠は七流で行われよりましたばってんが毎年山ば立てるとは
六流だけであとのひと流は輪番制で「能当番」ば務めよりました。
明治38年(1905年)の「追山馴し」雷鳴事件で揉めた当時の「魚町流(福神)」は
翌年から山に参加せんかったけん一時の間、五流で行われました。
明治42年(1909年)は魚町流が能当番やったけん六流で奉納。
ばってんが結局、この年は魚町流は能の奉納もせんかったて記録に残っとります。
そののち大正2年(1913年)の話し合いで魚町は山ば建てんで能当番専門になり
祇園山笠に復帰しました。
そのため他の六流は山笠奉納だけする今の形になったて言うこと。
現在、能当番は「宮総代」が務めよるらしいです。
そういう経緯で魚町(福神)流は現在も山笠には参加せんばってんが松囃子には
「福神流」として参加しよりますね(^^♪

山笠と違い松囃子は魚町(福神)流、石堂(恵比寿)流、洲崎(大黒)流が
三福神の当番(担当)して練り歩き、他の四流はその各町が輪番で稚児流の
当番ば務め七流で行われよりました。
ところが昭和41年福岡市の町境町名改正で呉服町流は解散
土居流は松囃子には参加せんごとなったけん以後
西(旧西町)流と東(旧東町)流が稚児当番ば「流」で交代で務めよります。

一方、戦前までは山笠に新しい流が参加することはできんやったとですが
先の大戦で博多の街も焼け野が原になり「博多復興」の名のもとに
山笠期成会会長の落石栄吉さん(のちに初代山笠振興会会長※現古ノ一、旧中対馬小路所属)が
広く他の流にも門戸ば開き戦後一時は十四流まで増えていったとです。
しかしながら、山笠運営は経済的に負担が大きくその中でも
「中洲流」「千代流」の二流だけが残り現在偶然にも七流になったて言うわけです(^^♪

現在は博多以外でも各商店街や商業施設には飾り山笠がその美しさば誇ります。
ばってんがこの飾り山笠は「流」ではありません。「〇番山笠」です。
その中でも唯一走る「上川端通の飾り山」・・・・・・
よくアナウンサーが「上川端流」て言うとば耳にしますがあれは間違い!
上川端の飾り山ば運営するとは「土居流」の中の「上新川端」て言う町です。
そいけん「八番山笠上川端通」て言うとが正しい呼び名になりますと。

桜も咲き、松囃子(どんたく)も近づいてきました。
今回、ち~とばかり勉強になりましたやろうか?(^^♪

今日はこの辺で
チャンチャン


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