千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

松囃子の起こり

季節柄今回は
「松囃子」についてのココロ♪

日本で最初の人工港「袖の湊」は
平清盛の息子、重盛が作ったて知っとった?

鎌倉時代から博多は海外との貿易の拠点として
わが国の要所やったことの解ります。


博多松囃子は、1179年に病没したその平重盛に
謝を表すために始まりました。
(筑前国続風土記)・・

奈良屋小学校の校歌
「偲~べ歴史の宗湛の~」の「宗湛日記」にゃあ
1595年(秀吉が朝鮮出兵しよる頃・・)
筑前領主小早川秀秋の城やった名島城さい
博多の町人が松囃子ば仕立て年賀の祝いを行ったと記されとります。

江戸時代ぃなったらすでに福禄寿・恵比須・大黒天の
三福神と稚児が松囃子の本体になります。
これに博多の各町・各人が趣向ば凝らした出で立ちや
出し物で続き、これば「通りもん」と呼びました。
三福神・稚児・通りもんの構成が現在のどんたくの原型でありまする。

恵比須流・大黒流の呼び名の起こりは・・

当事「石堂流」「須崎流」ていいよったばってん
ウラ(漁師町)の須崎流には大漁の縁起もんで恵比須さんば
飾りにして表敬したらよかろうと
「石堂流」が飾りにしました。

逆にムラ(農村)の石堂流にゃ豊作の大黒さんば
飾りにして表敬したらよかろうと
「須崎流」が飾りにしました。

これが流の名称の始まりです。

それに追従して魚の町が「福神さん」になります。
その頃、石堂は農村やったかはおいしゃん疑問は
ありますとばってんが?・・・

ムラとウラが交わるところに商いが発生し
人々が行きかうところが「マチ」となるそうです。

博物館の福Mさん・・
こげな説明で正しかでっしょうか?


1599年、小早川秀秋が加藤清正に年賀の使者を出した時、
使者が鉢合わせした松囃子一行と口論となり、
松囃子の者が侍の一人を馬上から引きずりおろして
殺してしまいます。

博多のもんのやりそうなこと・・

これで松囃子は中止されます。

福岡藩2代藩主黒田忠之により、
中止されとった博多松囃子は1642年に復活します。

天正年間に焼失した妙楽寺ば黒田長政が現在地に移転したり
東長寺ば黒田の菩提寺にしたり
当事のお上は博多に対して貢献しておりますばってん
現在のお上はどうかいな?・・

その時から松囃子は福岡城さい
福岡藩の藩主ば表敬するため
正月15日に赴く年賀行事として行わてきました。

その後明治になり再び「金銭浪費、文明開化にそぐわん」ていう
理由で山笠と共に禁止されます。

お上は天長節(天皇誕生日)ば祝うように・・

ていう御触ればだしますとばってん

天皇家のお祝い行事(紀元節など)にかこつけて
松囃子は繰出します。

先の大戦でまたもや松囃子は山笠と共に中止に
なるとですが「復興祭」で山笠と共に復活。

山と松囃子ば一緒にするとは盆と正月が
一緒にやってきた・・てなもんで

その後1949年からは前年に制定された憲法記念日に合わせて
5月3日と翌4日ば開催日とし現在に至ります。
「どんたく」は福岡市の「みなと祭り」として
定着し、「松囃子」は「松囃子保存会」の手により
今も同時期に行われます。

ちなみに「山笠」は「山笠振興会」が取り仕切ります。
こっちは「福岡市」の肝いりが無い分
博多町民が独自の自治で執り行っております

いわゆる三福神、稚児が松囃子であり
通りもんがドンタクていう呼称になります。

時代時代の規制にその時の時代に合わせて
気転ば利かせて続けてきた博多の祭・・

松囃子がいかんなら「どんたく」て言おう
裸でそうつくとがいかんなら「法被」ば着ろう

そげな気転ば今一度利かせて

コンクリの上で下駄履くとは止めて

松囃子、ズック履くごとしょうや・・

おいしゃんコンクリのうえの紅白下駄での行軍は

腰に堪えますったい

ちゃんちゃん

ランキングに参加中です。
見るたびにクリックしてつかあさい!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「山笠・博多の事」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事