つまりは博多の海の玄関口で明治時代の「博多港」やったけん
博多の歴史の中でも特殊な性格ばもった地域やったとです。
対馬藩やら秋月藩の倉元はここから米やらば船積みしよったとでしょう。
元より対馬藩は日本と大陸の交わりの中の第一線に位置しとります。
秀吉が朝鮮出兵「唐入り」する時も矢面に立って苦労しとったとです。
その対馬宗家の米倉がおかれるほど重要な地域が「対馬小路」界隈。
対馬は島全体の6/100位しか耕地の無かけん米が採れんとですね。
そこで朝鮮の役の功労で飛び地の薩摩の出水郡に一万石ば貰い
その後家康から肥前の基肆(きい)、養父(やぶ)に二万三十四石ばもらい
その積み出しのためにここに米倉がおかれたて言われますばってんが
太閤町割の時、「七小路」の名が出てくるくらいやけん
それ以前から藩の「継所」みたいなもんがあったとかもしれまっせんね。
明治中期の対馬小路界隈と今の大黒流町内ば見安うしてみました。
現つノ一は白砂青松の松原やったとでしょう。
秋四郎神社は今も古ノ二のせま~か縦筋にありますね。
多福庵は御存じナーランダ保育園の「多福寺」です。
多福寺の上見にくっかばってんが「洲ヶ崎稲荷」も・・・・・
この地図の下対馬小路の下に中対馬小路、そっからこの筋の右側が
現在の「古ノ一」の区域にあたります。
旧妙楽寺町は現在はほとんどが「古ノ二」の区域
横町筋から岡側の妙楽寺町が「古ノ一」になります。
廃藩置県後、秋月藩の米倉、役所辺りは「妙楽寺」に統合されましたばってんが
住民同士が合い入れんて言うことで「倉所町」が明治26年に独立したとです。
※以下、大黒流総合サイトから抜粋
明治初期から通称で認知されていた「倉所町」は、明治26年(1893年)に
隣接する妙楽寺町から独立する形で正式な町名となった。
町名の由来はこの地にあった秋月藩の四番めの蔵屋敷で、
その蔵屋敷は明治4年(1871年)の廃藩置県後は袖の港小学校となった。
現在古門戸町9番地に祀られている「秋四郎神社」は蔵屋敷の守護と繁栄を祈り
秋月藩祖黒田長興公と稲荷様を合わせ祀られたもので、倉所町の名残といえる。
大下付近以北は海やったて言うともそう大昔のことやあありまっせん。
何せ埋め立てて言うたら近代技術ば用いなできんですけんね。
この地図の時代の後から埋め立てが始まって今の築港本町が出来るとです。
これは昭和23年の地図。
西浜、千歳、冷泉、海岸通り、石城辺り以北が埋立地ですね。
博多二中はまだ無うて船だまりです。
二中の歴史は浅うておいしゃんの叔母さんが第一回生、当時は学校で
魚釣り大会のありよったて言うほどです。
おいしゃんが23回生
今は「博多中学校」になっております。
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