今日はその第一弾です。
【山笠の起源】
現在、博多祇園山笠の起源は「博多祇園山笠振興会」では
聖一国師が仁治二(1241)年、疫病除去のため施餓鬼棚に乗って
祈祷水(甘露水)ばまいたとが始まりという説ばとっとります。
(※聖一国師は実は没後に花園天皇から送られた国師号で本当は円爾「えんに」が正しかとです。)
ばってんが学術的な観点からは永享4(1432)年に始まったていう説が
最初の起源伝承であります。
明治4(1891)年に鎌倉時代に承天寺ば開山した禅僧、円爾が
始めたていう今の起源説が創作されたとです。
仁治二(1241)年、疫病除去のため施餓鬼棚に乗って祈祷水(甘露水)をまいたて
ありますが実際には施餓鬼棚が出てくるとは明治31(1898)年の
追山死亡事故があってそれらしゅう昭和25(1950)年に追加された創作であり
さらにまた昭和36(1961)に落石栄吉氏(パンダさんの義祖父)によって伝承ば完成させ今に至っとります。身近なとこで作られたとですね~
ばってんが実際には謝国明とともに円爾が疫から博多の町ば救って
飢饉で粥やらば振る舞うたとは本当の話で
そこから始まったて言う起源のほうがなんかそれらしゅうして良かやなかですか?
今の山笠は主に太閤町割り後の七流からのお話は多く耳にしますばってんが
山笠の最古の史料は「九州軍記」でそこに永享6(1432)年の祇園会に
12本の作り山が初めて登場し巡行したてあります。
1500年代初期には12本あった山笠は当時筑前ば統治しとった大内義隆によって
山口の祇園会に6本持って行ったけん博多の山は6本になります。
戦国時代で山笠は博多が焼け野原になっていったんリセットされますと。
そして太閤町割りでできた七流でまた山笠が始まり今に至ります。
ばってんが今と違うて七流でちゃ山笠奉納するとは六流です。
あとの一流は能当番ばしよりました。
追山が始まる前は今の東長寺、承天寺に加えて聖福寺にも
山ば止めて奉納しよったらしかです。
ばってんが追山の始まったら東長寺、承天寺への入り込みば
端折り山ば止めんしそれどころか端折って行かん流れも出てくる始末。
宝暦6(1756)年の「博多津要録」には
「山笠六本共に承天寺へ入不申候二付」承天寺が町奉行所に届けたてあります。
こげなとこ博多っ子らしかですね。
もともと三つのお寺に止めて奉納しよったとばってんがこげな状態が続くけん
山は止めんごとなってここまで入って来なさいの目印が東長寺、承天寺の清道旗で聖福寺は方向替えんけん今でちゃ清道旗はありません。
ほんらい山笠に関係なかった(本来の起源に基づきます)承天寺と聖福寺に
山笠奉納するか?これは延宝年間の飢饉で両寺が町民に粥やお金ば施行したお礼て言われとります。
この二つに奉納してお櫛田さんの座主の東長寺に奉納せんとが可笑しか?
嫌、もともと東長寺には奉納しよった。どちらが正しいかはわかりません。
タメニナルネ~
ランキングに参加中です。
見るたびにクリックしてつかあさい!
最新の画像もっと見る
最近の「日々の出来事」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事