
今日は天気がよいので、昼から旭川左岸までサイクリングをした。
石井十次の旧跡を訪ねてみようと思った。
十次についてブログで連載している時は、明治の地図と、現代の地図を
見比べながら、路地から露地を歩き、当時あったはずの建物を同定していった。
今も結構古い住宅があるが、いずれも十次が宮崎に去った後に建ったものだから、
古くて建築後100年程度だと思う。
私がよく通っていた頃から3年が経っているがその間でも新築の住宅に替っている。
目印は水路と路地。これはほとんど十次の時代から変わっていない。
そして、背景の操山は当然変わっていない。
当時、十次は宣伝のためもあって膨大な写真をとっており、それが多く残っている。
その写真には操山が背景に写ってものが多い。
それを頼りに建物の位置を同定していった。
もとは田圃ということもあって、相当広い。ひとつの村といってよいだろう。
もちろん、往時は1000名の生徒に職員が加わるわけだから、千数百人が住んでいたことになる。
大きな村である。
この村が、十次の宮崎行きとともに忽然と消えた。
それから、この土地はどうなったのか、興味はあるが本筋から離れるのでここまで。
今日は、まず写真を写すために、岡山博愛会病院前の石井十次像を見て、
十次が孤児院をはじめた三友寺から、岡山孤児院の敷地跡を巡った。
残念なことに十次ゆかりの案内板などは皆無である。
病院前の石井十次像だけである。
岡山市民として、これではイカンと思っている。
そのうち、ぜひ、なんとか、声をかけて、やりたいものだ。
写真は、岡山博愛会病院前の石井十次像
石井十次の旧跡を訪ねてみようと思った。
十次についてブログで連載している時は、明治の地図と、現代の地図を
見比べながら、路地から露地を歩き、当時あったはずの建物を同定していった。
今も結構古い住宅があるが、いずれも十次が宮崎に去った後に建ったものだから、
古くて建築後100年程度だと思う。
私がよく通っていた頃から3年が経っているがその間でも新築の住宅に替っている。
目印は水路と路地。これはほとんど十次の時代から変わっていない。
そして、背景の操山は当然変わっていない。
当時、十次は宣伝のためもあって膨大な写真をとっており、それが多く残っている。
その写真には操山が背景に写ってものが多い。
それを頼りに建物の位置を同定していった。
もとは田圃ということもあって、相当広い。ひとつの村といってよいだろう。
もちろん、往時は1000名の生徒に職員が加わるわけだから、千数百人が住んでいたことになる。
大きな村である。
この村が、十次の宮崎行きとともに忽然と消えた。
それから、この土地はどうなったのか、興味はあるが本筋から離れるのでここまで。
今日は、まず写真を写すために、岡山博愛会病院前の石井十次像を見て、
十次が孤児院をはじめた三友寺から、岡山孤児院の敷地跡を巡った。
残念なことに十次ゆかりの案内板などは皆無である。
病院前の石井十次像だけである。
岡山市民として、これではイカンと思っている。
そのうち、ぜひ、なんとか、声をかけて、やりたいものだ。
写真は、岡山博愛会病院前の石井十次像