岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

再考 社会活動家・賀川豊彦

2009-10-03 21:37:50 | 石井十次
10月2日の朝日新聞文化欄に、宗教学者 山折哲雄氏の表題の文章が掲載された。
賀川豊彦が、紙面に登場するのは珍しいのではないだろうか。

彼の名著『死線を越えて』が発行されたのが1920年。
この小説は、彼が神戸新川のスラム街での体験をもとに書いたベストセラーだが、
その新川のスラム街に身を投じ年が、1909年(大正9年)であり、今からちょうど百年前に
なるという。

『死線を越えて』を最近やっと読むことができたが、スラム街の様子は今の神戸市からは
とても想像できないひどさであり、その中で献身的に活動する主人公の物語は感動的だった。
この小説の発行部数は、なんと四百万部という。
信じられない数字だ。

ただ、ノーベル賞候補にもなったこのキリスト者が、今では知る人ぞ知る存在になってしまっている。

山折哲雄氏は、72歳で1960年に孤独のうちに去った賀川豊彦がなぜ顧みられることが
少ないのか。
彼のキリスト教が独自のものであり、正統派プロテスタントからは異端の信仰と
されたためだという。
その異端の信仰を引用してみたい。

「なぜなら賀川のいう『神』は超越の高みに輝く存在であると同時に、かれ自身の
からだのなかに限りなく降下してくる親しい存在でもあったからである。
その信仰をかれは『私の心が神に溶ける』といい、『私は神様のお客様だ、神様の花嫁だ』とまで言っている。
神と同一化する神秘体験を臆することなく言葉にしたのだった。」

山折哲雄氏は、このような体験は、キリスト教が日本の風土に土着していく過程でさけることにできない道で
あったという。
遠藤周作の作品も、こうした土着化ということだったと。

山折哲雄氏の文章を取り上げたのは、賀川豊彦の再評価の必要性とともに、
石井十次のキリスト者としての異端ぶりを理解する一助になったからである。
(私はいまだ石井十次の信仰が理解できていない)

明治の日本人は、キリスト教を理解し自分たちの信仰とするためには、様々な解釈を行った。
その信仰の多くは、正統派から見れば異端だっただろう。
しかし、異端が生まれるには理由がある。

それは、日本人である自らの頭で信仰を考えた故である。
彼らの社会的実践をみれば、世界に誇るべき社会活動家であることは間違いない。

信仰を脚色してしまうほどのパワーが彼らにあったというべきだろう。
勉強になりました。


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2 コメント

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賀川 (daisaku)
2010-05-23 20:47:45
こんなところにコメントしてすいません。

実は僕が勤めてる職場は、賀川が作った「イエス団」という社会福祉法人が運営しています。

去年は「賀川献身100年記念事業」をいろいろとやりました。

なかでも、「賀川問題」にイエス団としてどう関わるのか?ということは、法人以外からも日本基督教団解放センターからも指摘され続けている問題です。

新川に身を投じ、困窮者とともに生きた賀川が、非常に差別的な著作を残していることも、ノーベル賞から外れたりその後忘れられた一つの要因だと思います。

ちなみに当時に賀川がセツルメントをおこなった地に、新しい賀川記念館が出来上がりました。館長に、お孫さんにあたる方が就任してくださりました。デザイナーでありながら、おじいさんの足跡を継ぐ道へ。
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イエス団について (岩清水)
2010-05-23 22:29:36
daisakuさん
コメントありがとうございます。
「差別的な著作」については、話で聞いていますが、
読んでいません。
読んでおかなくては思っています。
有名無名を問わず、今から思えば「問題発言・問題著作」者は少なくないでしょう。
ひとつひとつ検証していくことは重要なことです。
「歴史の中での客観性」は欠かせません。

ただ功績は功績として残り続けるのではないでしょうか。

知らないことは本当に多いと思います。
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