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岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【秋葉原事件】沈黙してはならない。

2008-06-11 10:55:47 | 社会福祉士
2008年6月8日(日)、秋葉原で起こった事件について、
考えてみたいと思います。
まず被害を遭われた方々。そしてその家族や友人の方々に
哀悼の意を表したいと思います。
なぜ、あの人が被害にあったのか。なぜ私ではなかったのか。
そして、
加害者が彼であって、なぜ私ではなかったのか。
被害者も加害者も、私自身でありえないとは決していえないのです。

昨日の毎日新聞に(この事件と直接には関係のない記事ですが)、
第2次世界大戦に従軍した元兵士の方の話が載っていた。
「軍隊は地獄のようなところだったと軍隊経験者はよく言うが、
戦争の中で楽しみや暗い快楽があったのではないか。
人が戦争が好きだとすれば、それがあるのではないか」
という趣旨の話だった。
戦場に駆り出されれば、異常な心理の中で加害者になる。
私も同じに違いない。
今回の事件の解明には、そのような人間の暗部をも探らなくてはならないと
思われる。

今、加藤博史先生の「福祉の哲学」を読ませていただいているが、
本の中で、1997年の神戸での児童殺人事件にふれ、
「ソーシャルワーカーが社会問題への対処全般に関して、モノトリアム状態に
あり、個別要請と機関機能に即しサービス業務やカウンセリングに
終始続けるならば、1967年のヘレン・パールマンに指摘をもじって
『ソーシャルケースワークは死に続けている』と表しても過言ではなかろう」と
書かれてる。
そして、ソーシャルワークの「現代的課題に関する基本認識」(p210)
として、以下の3つの基本的認識をあげている。

1.彼の異常な行動を社会関係性のもたらした状況のなかでとらえること。
2.現代の社会関係性の主役は家族ではなく高度に発達したマス情報環境で
あること。
3.人間はだれもが一面的な存在である。欠点や弱点は状況によって長所となり、
この変化を含めて、人間は一面性を関係の中で互いに補い合って生きている。
補い合うことはあるべき理念なのではなく、そうしないと生きられない現実
なのである。
補い合いがなくなったとき、一面性がむき出しになって表現されること。

これは、神戸事件の総括の中で書かれているのだが、あの事件から11年。
元少年も今回の加害者と同年代である。
3つの基本的認識が今回の事件の加害者の場合も重なると考えられる。
今回の事件を社会防衛的に対処することでは事態は変わらないと思われる。
(厳罰化、銃刀法、通信管理など)。

加害者は、自らをインターネットに曝している。
発信しながらも、反応をみていただろう。
ことを起す場合に、自分自身をプログラム化するように、煩雑に発信する。
書き込むことで背中を自ら押す。
ある時期から他者からの反応も期待しなくなっているのかもしれない。
スケジュールをつくり、ネットを使って現実に追いかけさせる。
ネットは彼の忠実な道具であったが、彼もネットの忠実な道具になっていった。

上記の3に書かれている、補い合いがなくなったとき、一面性がむき出しに
なって表現されるなら、それを後押ししたのがネットである。

「福祉哲学」には、1999年京都伏見区の小学校で小学生が校庭で遊んでいた
時に侵入してきた男に殺害された事件にも触れている。
「この事件は、孤立閉塞した現実乖離的からの殺戮である。わたしたちにも
殺人や自殺の衝動は潜んでいる。しかし圧倒的な自己と他者への共感力に
よって、その衝動は抑制されている。その共感力がなんらかの障害によって
低下したり未開発であったりすると、簡単に人の殺戮が計画され実行される」

「圧倒的な自己や他者への共感力」が低下していたことは間違いない。
孤独と孤立は同じような言葉に思えるが、孤独は耐えなければならない
試練と考えるが、孤立は防がなくてはならない。
閉塞するのは、孤立するからである。

「現代的課題に関する3つの基本認識」をもとに、この事件の深みに下りていく
ことが、わたしには課せられている。


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