岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

ジモトを知る。 岡山大空襲 1945年6月29日未明

2014-06-09 18:00:49 | 岡山
6月になると、岡山市民は空襲のこと、戦争のことを考え始めます。
毎年、6月から8月まで、忘れてはならない歴史を学ぶ季節です。

テニアン島を飛び立ったB29爆撃機138機は、69年前の6月29日午前2時43分から午前4時7分までの1時間24分にわたって、岡山市街に約883トンの焼夷弾を投下しました。市街地の3分の2を焼き払い、1700名余りの人が犠牲になりました。
テニアン島は爆撃機150機以上が常駐した巨大空港であり、爆撃機は往復15時間以上の航行が可能でした。
この爆撃機編隊により日本中の都市が空襲に遭ったのです。

すでに勝利を目前にした米軍はあらん限りの爆弾を使用しました。
それは自国の兵士のこれ以上の損失を防ぐことでもありました。
自国民を守るという目的なら無差別殺傷を正当化できると考えたのでしょう。

冒頭の写真は「第37回岡山戦災の記録と写真展」のチラシをアップしたものです。

被災当時に市民が状況を書き込んだ地図です。
赤い部分が被災(焼夷弾被害)した地域です。
B29爆撃機は、右下から侵入し、左上に抜けていきました。
爆撃目標地点は地図の中下です。現在クレドや郵便局辺りです。
当時の市街地はほとんど焼けています。
市民は四方八方に逃げました。旭川や西川にも飛び込みました。
旭川に浸かりながら、岡山城が焼け落ちる様を見たという方のお話も聴きました。
西川では炎が水面を襲い悲惨な状況になりました。
天満屋百貨店の地下を防空壕代わりにしようと大勢の市民が入りました。
しかし、火や煙に巻かれ生き残ることができた人はいなかったと聞いています。

番町あたりだけが焼け残りました。
被害に遭っていない部分は村が点在している農村部といっていいでしょう。
岡山駅の西側では、奉還町や清心町が被害に遭っています。
今でも当時の様子を語っていただける方がおられます。
私も何度が聴かせていただきました。
とても凄惨な状況で、「語るも辛く、聴くも辛い」話でした。

岡山市街はこのように悲惨な光景になったのですが、市街地から10km離れた北部で見ていた人からは
「巨大な花火のようで綺麗だった」と聞きました。
人間の想像力などたかが知れたものだということが分かります。


陸軍の練兵場(現総合グラウンド)には当時も建物はありませんから被害に遭いようがありませんでした。
赤丸はビッグイシュー販売所です。周辺は焼けている地区もあります。
残った爆弾を最後に落としていったと聞きました。

武器の大量生産大量消費です。
生産したものはすべて使い切って新たに生産する。軍需物資も資本の論理に貫かれていました。
私の実家の裏の田にも爆弾が落とされました。
幸いに不発だったと聞きました。

今の岡山大学内、当時の歩兵第33旅団司令部の建物は爆撃されていません。
すでに兵隊も軍事物資もなにもないことは、調査済みだったのでしょう。

戦況は明らかでした。


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