ほとほと通信

89歳の母と二人暮らしの61歳男性の日記。老人ホームでケアマネジャーをしています。

母系の情景

2014-11-22 | 家族
今日は仕事はお休みでした。

一か月半ぶりに神田の心療内科に行きました。
このところ状態はすっかり安定していることもあり、薬の量はうんと少なくなっています。
次回の通院は約二か月後です。


私は帰りの電車で、母方の先祖の記録である小冊子『あゆみ』を読んでいました。
おとといのブログにも書きましたが、昭和56年に作成されたこの冊子を、母は何気なく私のうちに持参したのです。

それによると、私の曽祖父・I森次郎は、明治31年4月29日に郷里山形県の酒田港を出航し、5月3日に湧別港に入港、翌日入植地の遠軽に入った…とあります。

「上陸の第一夜は湧別の宿屋・寺院・民家に分宿しました。そのころ、湧別浜のは二十戸から三十戸しかありませんでしたので、一度に千人くらいの人が泊まって超満員となり、やむなくむしろを敷いてごろ寝をした者もいたそうです」と、私の叔父の一人は『あゆみ』に書いています。

しかし、その夏は長雨が続いて作物も大きな被害を受け、「その惨状は言語に絶する状態で、塩煮のフキなど野草ばかりを食し、かろうじて飢饉をまぬがれるという悲惨なものであった」という記録もあります。

「言語を絶する開拓の労苦」という表現が『あゆみ』の至る所にありますが、電気も水道も通っていない原野を、老人や幼子を引き連れ、鋤や鍬などの原始的な農具で開墾していったのですから、まさにその労苦たるや想像を絶します。

I森次郎は山形県移民団七十五戸の団長だったそうです。
わずか三代後の私のどこにその「開拓者DNA」があるものか、まことに不思議な気もするのですが…。

森次郎は、妻・エキとの間に九男二女を設けました。
そのうち、長男の森太郎を除いた10人の子供は、すべて新天地で授かっています。

その名前を見ていくと面白い。
森太郎の後は、カク(長女)、勇吉(次男)、勇(三男)、勝雄(四男)、勝(五男)、末雄(六男)と、比較的簡単な命名が続いています。
末男…という名前には「もう、このへんで終わりにしようか…」という気持ちが込められているようです。
でも、その後に男子(七男)が生まれ、その子は「七男(ナナオ)」と名付けられました。

その七男さんは昭和19年、33歳で戦争に採られ、翌年2月、フィリピンで戦死しました。
戦地からのハガキの写真も『あゆみ』には写っています。
印刷が判然としませんが、その文字は次のように読めます。

稔、惠、不二男、孝子、幸
皆、元気で遊んで居るだらうね
父さんは、毎日元気で働いてゐる
お前達は、御母さんの云ふ事をよく聞いて
今迄の様に喧嘩などしてはいけない
仲良くして心配させないで呉れ
来る時、花も散ってゐたケシの木も、小さい實を
付けてゐるだらうね
この次はお前が読める様に便りを書くからね
では又

七男さんの葬儀は昭和22年10年に行われ、葬儀後に撮った写真が『あゆみ』に載っています。
広い日本間で、小さな子供から老人まで、二十数名の家族がカメラを見て並んでいます。
このとき16歳だった母も写っているはずですが、どれが母なのか聞くのを忘れました。

また、昭和39年に撮影した「当時の畑」という写真には、小高い丘(というより山と言っていい標高)から見下ろした、広大な土地が写っています。
それは全く日本離れした情景で、まるで西部開拓地のようでした。

母は、私とは全然違うものを見ながら生まれ育ってきたのだなア…と感じました。