こんにちは。今年4月から市民レポーターの仲間入りをした 三井玲子(みついれいこ) です。
こちらのブログでは、「甲府城御案内仕隊」取材時※のエピソードをお伝えします。
よろしくお願いします。
※『広報こうふ』6月号 p26「とびだせ! 市民レポーター!」をご覧ください。
http://www.city.kofu.yamanashi.jp/shise/koho/kohoshi/h31/documents/20190626.pdf
取材を行ったのは、4月15日
当日、集合時間よりも早めに到着してくださった、会長の 風間 勲(かざまいさお)さんです。
「今日は風が強くて桜が散っていますが、桜吹雪も風情があっていいものですよ。やっぱりお花見の頃が、いちばん観光客が多いですね」
取材&ガイド開始
公園管理事務所から「鍛冶曲輪」(かじくるわ:道具職人の作業場)の横を通り過ぎ、「石切場跡」(いしきりばあと)へ
甲府城はかつて、「甲斐府中城」(愛称は「舞鶴城」)と呼ばれていました。信長の死後、秀吉が天下を取ると、甲斐国に身内の羽柴秀勝らを配置して、1590年頃から築城させました。その石垣用の石を、ここで切り出していたことがわかります。甲府城の基礎となった山には岩石が豊富にあり、まさに「石垣の城」だったのですね
石に刻まれている長方形の跡が「矢穴」(やあな:石を割る際にできた跡)です。
この跡が、横12センチ程であれば年代が古く(1590年頃)、横9センチ程であれば年代が新しい(1700年頃)とわかるそうです。これは道具が発達するにつれ、少ない金属で石を割ることができたことを示します。つまり、時代とともに跡が小さくなっていったので、年代が特定できるとのこと
石の中には、せっかく矢穴で割ってひびも入っているのに、そのまま積んであるものもちらほら
「当時の職人たちも途中で疲れて、割るのをあきらめて積んだのかもしれません(笑)」と、風間さん。
「石切場跡」から少し坂を上がった所に、「水溜」(みずだめ)という小さな池。ここになぜか金魚が これは、自然の湧き水で飼っているそうです。
風間さんのお話によると、1704年頃の城主・柳沢吉保が城内で金魚を飼うことを奨励したとか。その息子の吉里が国替えの際に、奈良県の大和郡山市へ金魚を持ち込んだのがきっかけで、大和郡山市は金魚の一大産地に(大和郡山市は甲府市の姉妹都市として提携)。金魚の陰に歴史あり、ですね
ところで、風間さんの衣装(赤い上着と赤い帽子、そして隊員証)は、2004年6月に甲府城御案内仕隊が発足したときからのご愛用品。自営業をご勇退された折に、やりがいを見つけようと、県埋蔵文化センターの講座を受講されたのが入隊のきっかけだったそうです(現在は、新人用にベスト型の上着を隊で購入)。
そして、新入隊員研修スケジュールのカリキュラム(学習内容)にびっくり
歴史や人物、接客マナーなど、成果測定(質疑応答)を含めた9回の講座が、2月~6月の間にみっちり! こうした自己研鑽を重ねて、御案内仕隊のみなさんは活躍されているのですね。
取材日は月曜日で「稲荷櫓(いなりやぐら):武具蔵」は閉館日でした。残念(祝日であれば開館)。
こちらは現在、甲府城(舞鶴城)の模型や、鯱瓦のレプリカなどが展示されています(舞鶴城の模型を見ると、本当に鶴が羽を広げているような形をしています)。
そして、風間さんイチオシの おすすめスポットへ…。
それがどこかは、『広報こうふ 6月号』をご覧ください。
(ヒントを少しだけ…)
当日は強風でしたが快晴で見晴らしが良く、天守台からの360度の眺めは絶景でした
まだまだ見どころ満載の甲府城。文章で伝えきれなくて申し訳ありません。
風間さんも、「山梨県からの来城者が一番少ないので、山梨県の方にたくさん来てもらいたいですね」と仰っていました。この日は御案内仕隊の定休日にもかかわらず、快く取材に応じてくださいました。
気さくな笑顔と豊富な歴史雑談で、終始楽しい取材になりました。心より御礼申し上げます。
ぜひ多くの方にご来城いただいて、「甲府城御案内仕隊」の御案内を楽しんでいただければと思います。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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(公社)やまなし観光推進機構
電話:055-231-2722 FAX:055-221-3040
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