6月28日は、京都市緑化協会主催の庭園見学会で西芳寺(苔寺)を訪ねました。
解説は協会理事をされている、いつも(?)の吉田昌弘先生です。
西芳寺は、行基菩薩により畿内49院のひとつとして建立されたのち、1190年頃に藤原師員により再興されました。この頃には、既に池泉式の代表的な庭園になったいたようです。
まずは本堂で写経をし、ご本尊さまに納経した後で庭園を巡ります。
去年の6月にも訪れていますが262文字の般若心経から簡易な写経に代わっていました。
本堂は昭和44年(1969)に再建され、襖絵は堂本印象の筆によるものです。
写経を終え、いよいよ庭園を巡ります。
玄関前には蓮の花が咲いていました。
大賀蓮(おおがはす)と呼ばれる古代からの品種です。古代の遺跡の発掘中に発見された種を大賀博士が発芽に成功し広まった蓮です。
下段のでしたは一面苔に覆われ、洲浜など浄土式庭園の面影はありません。
夢窓疎石が入山した時の記録に「清池を開き、伏流を導く。白沙の洲、快松の嶋」とあるように、白沙青松からなる明るい浄土式庭園でした。
檜が目立つのは、かって西芳寺は貧乏寺で庭園に檜を植林し、材木を売って寺を維持していた頃の名残りでしょうか?
心字池に浮かぶ朝日ヶ島と夕日ヶ島は池に堆積した白沙を長年積み上げてきた為か周囲とバランスを欠く程に高く積み上げられています。
上の写真は指東庵と呼ばれる開山堂です。
その東側にある石組みをでのように解釈するか意見の分かれるところです。
お寺では夢窓疎石が作庭した枯山水の石組みとの見解を示されています。
しかし、吉田先生の見解は
①開山堂の横(東)側に庭園を造るのはおかしい。
南庭だと理解できるのだが、、、
②開山堂の上には、かって禅堂(専門道場)があり、そこへ行くための階段跡ではないか。
修行僧が開山堂にお参りをし、険しい石段を登り、山道を登って禅堂に向かう、、、
いわゆる修行への道の一部として捉えておられます。
との説をお聞かせいただきました。
素人ながら僕の考えは、開山堂は傾斜地に建てられおり前庭となる庭園は作りることは不可能です。そこで、あえて東側に枯山水庭園を作庭した、、、とは考えられないでしょうか?
石組みの巧みさ(特に手前の石組み)、ダイナミックさはどこか天龍寺の曹源池庭園に通じるものを感じます。
(枯れ滝や龍門爆、鯉魚石などは確認できませんが、、)
解説は協会理事をされている、いつも(?)の吉田昌弘先生です。
西芳寺は、行基菩薩により畿内49院のひとつとして建立されたのち、1190年頃に藤原師員により再興されました。この頃には、既に池泉式の代表的な庭園になったいたようです。
まずは本堂で写経をし、ご本尊さまに納経した後で庭園を巡ります。
去年の6月にも訪れていますが262文字の般若心経から簡易な写経に代わっていました。
本堂は昭和44年(1969)に再建され、襖絵は堂本印象の筆によるものです。
写経を終え、いよいよ庭園を巡ります。
玄関前には蓮の花が咲いていました。
大賀蓮(おおがはす)と呼ばれる古代からの品種です。古代の遺跡の発掘中に発見された種を大賀博士が発芽に成功し広まった蓮です。
下段のでしたは一面苔に覆われ、洲浜など浄土式庭園の面影はありません。
夢窓疎石が入山した時の記録に「清池を開き、伏流を導く。白沙の洲、快松の嶋」とあるように、白沙青松からなる明るい浄土式庭園でした。
檜が目立つのは、かって西芳寺は貧乏寺で庭園に檜を植林し、材木を売って寺を維持していた頃の名残りでしょうか?
心字池に浮かぶ朝日ヶ島と夕日ヶ島は池に堆積した白沙を長年積み上げてきた為か周囲とバランスを欠く程に高く積み上げられています。
上の写真は指東庵と呼ばれる開山堂です。
その東側にある石組みをでのように解釈するか意見の分かれるところです。
お寺では夢窓疎石が作庭した枯山水の石組みとの見解を示されています。
しかし、吉田先生の見解は
①開山堂の横(東)側に庭園を造るのはおかしい。
南庭だと理解できるのだが、、、
②開山堂の上には、かって禅堂(専門道場)があり、そこへ行くための階段跡ではないか。
修行僧が開山堂にお参りをし、険しい石段を登り、山道を登って禅堂に向かう、、、
いわゆる修行への道の一部として捉えておられます。
との説をお聞かせいただきました。
素人ながら僕の考えは、開山堂は傾斜地に建てられおり前庭となる庭園は作りることは不可能です。そこで、あえて東側に枯山水庭園を作庭した、、、とは考えられないでしょうか?
石組みの巧みさ(特に手前の石組み)、ダイナミックさはどこか天龍寺の曹源池庭園に通じるものを感じます。
(枯れ滝や龍門爆、鯉魚石などは確認できませんが、、)
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