■unabhaengig,independent■
ドイツ語と英語の独立はそれぞれ依存という状態の否定という意味です。abhaengigとは依存です。それを否定するunという接頭語をつけてドイツ語は独立なんです。英語も同じです。
もう少し正確に言うと、西洋的思考には依存なくして独立はない、というパラドクスがあるんですね。というか、依存というものを否定するのは、けっきょく独立を知っているからです。独立を知る人間がはじめて依存を否定として認知するのです。つまり、変ないいかたですが、独立のない依存などない、というのが、どうも西洋の〈独立/依存〉の解釈なんです。だからそれを、依存のたえざる否定のなかに独立を見るといい変えてもよいことになるのです。独立を知ることなく、依存はわからない。また、独立を知るためには依存していなければならない、こういうパラドクスが独立にはあるのです。ヘーゲルの『法の哲学』の訳では die Abhaengigは「隷属」となっています。そうです、「独立」でないのは「隷属」なのです。それがヘーゲルの文脈では正しい解釈です。
でもよ、くどいけど、独立をしらなければ、依存を依存とさえ認識できないのです。ここがポイントなのです。依存を隷属として受けとめる人間にのみ独立の栄誉は与えられるであろう、ということになるんだね。
■独立と名誉■
さらに、ヘーゲルはこのように言っています。人間が独立を失うことで「誇りの感情der Ehre」も失うのだ。と。ヘーゲルは独立を個人の尊厳の中心においているのです。ヘーゲルをただ、教科書的にドイツ観念論としか理解していないのでは『法の哲学』という本を読めないのではないでしょうか。僕が「倫理」の教科書を見るかぎり、人倫の段階を述べるヘーゲルしか記述されていないようにみえます。我が国を代表するヘーゲル研究の第一人者の加藤尚武はヘーゲルを修正スミス主義者と呼んでいます(加藤尚武『ヘーゲルの「法」哲学』青土社)。
スミスの世界とは本当に楽観的な独立の世界です。西洋はマルクスを含めてスミスの世界を問うことから始めます。それは、個人が独立してプライドをもっていた世界です。
スミス以後、自由主義的経済体制はこのスミス的独立世界を洗い流していきます。そして、スミス以後はもう一度スミス的な世界をどう再建するかという課題と格闘することになるのです。
ヘーゲルもその例外ではありません。マルクスも例外ではありません。よければ内田義彦の『経済学説史講義』(未来社)を読まれるとよいと思います。
■けっきょく独立■
西洋は市場原理を前提にしています。マルクスさえ止揚であって、廃止ではありません。それはこう考えましょう。それは、独立への無限の依存からの脱却だ。と。そこに西洋は個人の尊厳をみるのです。独立できない人間はしょせん「隷属=依存」なのです。それは屈辱なんです。
さて、僕の職場をみることにしましょう。どうみても、独立などというレベルではありません。最後は独立なのだ、ということ、そのためには市場価値をできるかぎり高めること。こうした要請を自らにたえずつきつける、などという感性は残念ながら私の職場にはありません。年月を重ねれば重ねるほど、独立よりも依存がふかまります。意味のないナルチシズムだけで生きていけてしまうのです。
移動すること、売ること、これが西洋が独立の条件としてきたことです。詳しくは柄谷行人の「探求1・2」をお読みになられるといいと思います。教員の世界ではなぜか、教務というセクションが出世の振り出し口なんです。僕は24年この仕事をやってますが、いまだになじめないのですが、この認識がいかに独立させないシステムなのかは、「移動」という問題を考えてみればいいのです。いま、形ばかりですが、静岡県でも「FA」などということを言い始めました。もちろん、こんな制度はお遊び以上にはなりません。しかし、仮にそうだとしても、教務主任の力量を客観的に成果としてFAの材料になどできないと思いますね。
独立という思考を考えましょう。今している仕事は独立へとつながっているのか、どうか。そのときに、かならず、その仕事をだれに売るのか、を、では、何を売るのかを、少なくとも、売りは何なのかを説明することになるのです。分掌だの、学年の仕事などで、示せるものはないと僕は断言します。
ちなみに、僕は『現代社会』の授業をこの科目が設定されて以来22年間(2年間休職期間があるので、現代社会は24年間設定されているが)一年たりとも担当しなかった年はありません。
ドイツ語と英語の独立はそれぞれ依存という状態の否定という意味です。abhaengigとは依存です。それを否定するunという接頭語をつけてドイツ語は独立なんです。英語も同じです。
もう少し正確に言うと、西洋的思考には依存なくして独立はない、というパラドクスがあるんですね。というか、依存というものを否定するのは、けっきょく独立を知っているからです。独立を知る人間がはじめて依存を否定として認知するのです。つまり、変ないいかたですが、独立のない依存などない、というのが、どうも西洋の〈独立/依存〉の解釈なんです。だからそれを、依存のたえざる否定のなかに独立を見るといい変えてもよいことになるのです。独立を知ることなく、依存はわからない。また、独立を知るためには依存していなければならない、こういうパラドクスが独立にはあるのです。ヘーゲルの『法の哲学』の訳では die Abhaengigは「隷属」となっています。そうです、「独立」でないのは「隷属」なのです。それがヘーゲルの文脈では正しい解釈です。
でもよ、くどいけど、独立をしらなければ、依存を依存とさえ認識できないのです。ここがポイントなのです。依存を隷属として受けとめる人間にのみ独立の栄誉は与えられるであろう、ということになるんだね。
■独立と名誉■
さらに、ヘーゲルはこのように言っています。人間が独立を失うことで「誇りの感情der Ehre」も失うのだ。と。ヘーゲルは独立を個人の尊厳の中心においているのです。ヘーゲルをただ、教科書的にドイツ観念論としか理解していないのでは『法の哲学』という本を読めないのではないでしょうか。僕が「倫理」の教科書を見るかぎり、人倫の段階を述べるヘーゲルしか記述されていないようにみえます。我が国を代表するヘーゲル研究の第一人者の加藤尚武はヘーゲルを修正スミス主義者と呼んでいます(加藤尚武『ヘーゲルの「法」哲学』青土社)。
スミスの世界とは本当に楽観的な独立の世界です。西洋はマルクスを含めてスミスの世界を問うことから始めます。それは、個人が独立してプライドをもっていた世界です。
スミス以後、自由主義的経済体制はこのスミス的独立世界を洗い流していきます。そして、スミス以後はもう一度スミス的な世界をどう再建するかという課題と格闘することになるのです。
ヘーゲルもその例外ではありません。マルクスも例外ではありません。よければ内田義彦の『経済学説史講義』(未来社)を読まれるとよいと思います。
■けっきょく独立■
西洋は市場原理を前提にしています。マルクスさえ止揚であって、廃止ではありません。それはこう考えましょう。それは、独立への無限の依存からの脱却だ。と。そこに西洋は個人の尊厳をみるのです。独立できない人間はしょせん「隷属=依存」なのです。それは屈辱なんです。
さて、僕の職場をみることにしましょう。どうみても、独立などというレベルではありません。最後は独立なのだ、ということ、そのためには市場価値をできるかぎり高めること。こうした要請を自らにたえずつきつける、などという感性は残念ながら私の職場にはありません。年月を重ねれば重ねるほど、独立よりも依存がふかまります。意味のないナルチシズムだけで生きていけてしまうのです。
移動すること、売ること、これが西洋が独立の条件としてきたことです。詳しくは柄谷行人の「探求1・2」をお読みになられるといいと思います。教員の世界ではなぜか、教務というセクションが出世の振り出し口なんです。僕は24年この仕事をやってますが、いまだになじめないのですが、この認識がいかに独立させないシステムなのかは、「移動」という問題を考えてみればいいのです。いま、形ばかりですが、静岡県でも「FA」などということを言い始めました。もちろん、こんな制度はお遊び以上にはなりません。しかし、仮にそうだとしても、教務主任の力量を客観的に成果としてFAの材料になどできないと思いますね。
独立という思考を考えましょう。今している仕事は独立へとつながっているのか、どうか。そのときに、かならず、その仕事をだれに売るのか、を、では、何を売るのかを、少なくとも、売りは何なのかを説明することになるのです。分掌だの、学年の仕事などで、示せるものはないと僕は断言します。
ちなみに、僕は『現代社会』の授業をこの科目が設定されて以来22年間(2年間休職期間があるので、現代社会は24年間設定されているが)一年たりとも担当しなかった年はありません。
不況なときにこそ、新たなる投資、より細かな分業を展開するなどということは容易にはできない。分業を深め、ということは、みずからをより、細かな一部として経済行為をするという西洋のコンセプトをみたとき、この消費不況に直面している学校などは、坂口安吾ではないが、堕ちるだけ堕ちよ、とでもいうよりなくなるのだ。
ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の有名な末尾はこう結んでいる。ピューリタンは専門人たらんとした、われわれは専門人たらざるをえない。