成績会議の闇
成績会議の内容は守秘義務もあり、公表出来ない部分が多い。個人の成績内容などはその最たるものだが、そういうこととは関係なく、成績会議の会議資料のデータらしきものからは公表したくても公表すべき何ものも見いだせないような空疎感を感ずる。データを見せられ、担当者たちが報告する。しかし、それを聞いて、何か言えといわれたときに、
「あ、そうなの」
程度のことしかいえないのだ。これは、私の実感である。
君が教員だったらこう尋ねよう。
君は、成績会議で乱舞するデータの何を理解しているのだ?
成績会議の資料には、大きな大きな闇が深く深く存在している。これから私は機会あるごとにこの闇のなかに消えていってしまっているもののリストをめぐって書いてゆくことになる。中岡哲郎という技術史家がいる。彼が若い頃書いた『人間と労働の未来』と『工場の哲学』という本がある。私はまだまだこの二つの本を読み切れていないが、『資本論』と合わせて、中岡の論理展開を踏まえながら、教育労働の疎外という問題を少しずつ論じたいと考えている。
闇に消えているもののリスト
ここに出ている評価結果には、基準がわからない。
体育はどういう基準で、「1」から「5」までをつけたのか?
国語は?
地歴は?
不明である。大体私たちが不明なのである。この不明を象徴するのが、学校差である。大体地域の超進学校の「5」と底辺校と呼ばれる成績下位者の学校の「5」は明らかに異なる。しかし、そうした差異を私たちは並べられている成績から見いだすことはできない。
大体、Aという担当者とBという担当者の数値はどう異なるのか?
Aという集団とBという集団ででた数値はどこまで同じで、どこまで異なるのか?
一切不明である。
もっとわからないことがある。大体、成績は、授業態度なるものを含んでいる。授業態度を成績に入れている。これはどうやって数値の中の差異を根拠づけるのだろうか?
基準が不明であることの波及効果は大きい。
基準が不明だということは、物差しがない、ということだ。物差しがないということは、
大きいぜ
っていわれても、どれだけ大きいかわからない。と同時に、当人の能力差がわからない、ということになる。
デキが悪いです
とよく教員がいう。生徒のデキが悪いのか、お主の教え方が悪いのか、これも不明になる。
そうなのだ。このシステムでは、成績というもっとも大事な私たちの労働の成果に私たちの能力を測定するすべがない、という重大な帰結をもたらすのだ。
帰結としての問い
さて、これらの帰結からこのような問いを導いてみよう。
なぜ、私たちの成績会議の結果に、私たちは、担当者の能力差を見いだすことが出来ないのだろうか?
Aという担当者が
「出来が悪い」
と結果を言ったとしよう。
「しかし、どうやったら、そこまで生徒を引っぱることが出来たのですか?」
などという反問はどうしたら可能になるのだろうか?
反対に、
「それは、君の教え方が悪いのだ」
「そうか、君の力からすればその程度だろうね」
などという問い、
「成績の結果を見られるのが怖い」
などという充実感がどうしたら消えることになるのだろうか?
それは、
「どうして教員から結果に対する責任を喪失させるのだろうか?」
という問いと重なると考えてもよい。
スポーツの世界だけではない、芸術の世界でもよい、それぞれ、高度の熟練に心を打たれたり、その技術の差が歴然と、しかも明確になったりする世界がある。ではなぜ、学校はそうならないのだろうか?
それは、どうして、学力を上げられない自身の無能を知ることがない人間が堂々と先生様稼業を続けられるのか?
とも、
そうした教員が存続しえるシステムとはどのようなシステムなのか?
ともいえる。
それは、また、反対に従順であれば、文字が読めなかろうとけなげにがんばっているとばかりに自由に生徒の能力を査定し、成績を付与できる権限をなぜ、教員はもてるのか?という問いだと言い換えてもよいだろう。
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生徒に如何にそれを教えるかが必要に思う。先生がやる気を起こせば必ず生徒は見ているのですね。