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体罰して謝罪する
私にとって、とても苦い経験がある。今を去ること25年程前のことである。
若い体育教師が堂々と、学年集会で
「これは体罰だ!」
といって、生徒を平手で殴るのをみた。生徒を前に出し、ならべてびんたをしたのだった。
私は、あっけにとられていた。
時は流れた。今でもそのときの何ともつかない驚きと戸惑いを忘れることはできない。あれは、なんだったのだろうか。
もちろん、止められない自分に対する情けなさもあった。しかし、圧倒されたといっていいのかもしれない。そのあっけらかんとした体罰肯定の姿勢に。
静岡県はきわめて保守的な県である。この類の教師はきわめて多い。体罰を今、いけないとされているから自粛しているのであって、本質的なその体質は全く変わっていない。
「あの先生が怒るより、ちょっとほほえんだ時がこわい」
と同僚のことをほかの同僚がいうのをきいたことがある。
これ、どういう意味だろうか?
「こわい」
のだ。
もちろん、それは、体罰への道が用意されていることを意味するのだ。
さて、その教師が体罰をして怒られて謝罪したとする。
それは何を意味するのか?だ。
正確にいうと、体罰をしてバレて、怒られて、謝罪するのだ。
校長はそして、今日も念仏のように体罰をしないようにと教員にいうのだ。
なぜ、体罰を処罰されても、体罰をし続けないのだろうか?
おそらく、ちょっとほとぼりが冷めれば
「あの野郎(生徒)チクリやがった」
と生徒を恨むだろう。
だって、怒られなければ平気で体罰を振るっていたのだから。
いや、バレなければ、バレて怒られなければ、だ。
しかしだ、なぜ、体罰を処罰され、怒られてでも体罰をし続けないのだろうか。ここに体罰の本質があるのだ。
「情けない。俺は、処罰されたくらいで、体罰はやめない。処罰されても、体罰は正しいのだ、俺は体罰する」となぜ、言えないのだろうか?
生徒がタバコを吸っているところを見つかって処分されて、反省文!
一体これとどこが違うのだろうか?
勘違いされては困るが、私が
「体罰せよ」
と書いたのは、体罰をしなさい、という意味ではない。もう少し正確言うと全員に向かって言っているのではない。体罰を振るっている教員が、怒られてやめる、というその時に、この問をはっしてみたらどうなのか、ということを言いたいのだ。
だって、それでやめたんじゃ、不良のタバコとかわんないだろう?