高校公民Blog

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イチローの絶対的事前性

2010-09-26 21:35:39 | 社会科学・哲学

偶然

 イチローがメジャーリーグで10年連続の200本安打という大記録を達成しました。おかげで僕の大好きな中日落合監督の優勝がなるかいなか、という話題が少し薄れているようにも思えています。ま、それはそれだけのことなんですが、普通の人は「いつ達成するのか」に釘付けになりますよね。もちろん、それはそれで大きな楽しみなのですが、イチローが何年か前に、はじめて200本安打を達成したときの、次の元ロッテで、大リーグ経験をした小宮山(下、写真)のことばが妙にひっかかったのです。


アナウンサー「特別今年はよかったんでしょうかねえ」
小宮山「いや、別段変わってないと思いますよ。記録自体は偶然です」
アナウンサー「今シーズンの出だしはどちらかといえば悪かったですよね」
小宮山「それも偶然ですね」
アナウンサー「え?じゃあ、同じってこと?ですか?」
小宮山「はい、バットの芯でボールをとらえるということだけを(イチローは)考えていますから、それ自体(とらえていたという事実!)は何にも変わっていません」

結果はあくまで〈偶然〉なのだ、というのが小宮山の指摘なのです。

事前から見る


 私たち外野の大衆はしょせんイチローを結果から見ています。いつ、記録が達成されるか。それはじつは英語で表現すると、「will have +p.p」 という形式で見ているのです。未来の達成された地点に立ち、それがいつ降臨するか、これが私たちがみている構図なのです。報道は、盛んにイチローの幼年時代から彼の今を説明しようとしています。しかし、それはすべて結果から事後的に見られた図なのです。イチローと同じような野球少年はいくらでもいたに違いありません。その地点で「今のイチロー」を見出すことは不可能です。その不可能さこそが今なおイチローが立ち向かっている〈闇〉であることについてはしかし、だれも触れないのです。それはなぜなのでしょうか。

〈事後から見る〉構造

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

 社会学者の佐藤俊樹が『不平等社会日本』という本のなかで「実力・成果主義」と「努力主義」という二つの考え方を軸にして意識調査をしています。もちろん、日本人は後者がすきなのです。努力する姿勢、目の色、…こういうのが好きじゃないですか。イチローの現在をそうした物語のなかへと位置付けたいという思惑が、実はこの間のイチロー伝説には確実にありますね。努力すればこうなる、努力したからこうなった、こう世間は見たいのです。それに加えて、家族のみんなが支えた、高校の恩師が支えた、ついでに弓子さんが支えた、と家族共同体が、出てくるのです。
 これらはみな結果から見ています。結果が出たから言えることです。すべて事後からみた図なのです。結果から安心して説明したい、結果から麗しい物語を作りたい、そのなかで安らぎたい、実はそうした願望がこのイチロー伝説を駆動しているのです。

 近い話をすると、例の冬季バンクーバーオリンピックで銅メダルの高橋大輔や、金メダルを逃して残念だった浅田真央の話題は盛り上がりましたが、安藤美姫やスピードスケートの岡崎朋美などの話題は詳しくは私たちの話題にはなりませんでした。それはもちろん、こうした競技を私たちがよく知らない、という事情もあるかもしれませんが、私は、そうしたことをのぞいても、私たち大衆は、事態を結果からしかみることができないという能力としての貧しさを現しているのではないか、と思っているのです。
 結果から見たい、結果へとたどりついた努力物語を見たい、安心した物語を見たい。
 しかし、彼らの世界は「偶然」という〈絶対〉の神が住む世界なのです。

事前から見える絶対の神

 私はヘボですが、囲碁と将棋をやります。それぞれの超一流がタイトルを争い、対局します。彼らはおそらく100手単位で手を読むことが可能なはずです。しかし、その彼らが対局中の難所で口をそろえていうのが、
「一手先がわからなかった」というコメントなのです。
「対局中はどうでしたか?」ときかれて
「一手先がわからなかった。勝てると思ったのは終局の数手前だった」ということも希ではありません。名局になればなるほどそうです。
 私の敬愛する将棋の棋士の米長邦雄は「」というものを盛んに口にします。彼らの最後は「運」だというのです。

運を育てる―肝心なのは負けたあと (ノン・ポシェット)

 さてイチローを〈事前〉から見てみましょう。彼が見ているのは予測不可能な現実です。そのときに彼が全力を傾注するのはおそらく小宮山が指摘したように〈芯でとらえる〉ことです。そして、そのとらえる精度はひょっとすると、去年と比べても、シーズン当初と比べても変わらないのかもしれません。いや、変わらないのでしょう。後は「運」であり、「偶然」なのです。そこには彼自身の統御をはるかに超えた力が介在しているのです。

結果はボールに聞くよりない

 この怖さを、敬虔な思いで見つめているイチローの存在を僕は聞いてみたいと思いますね。事前と事後の結果との断絶、実は彼に開けている現実はその無限の繰り返しであり、恐怖なのではないでしょうか。その神を前にしたとき、私たちにできるのは、一球、一球を見つめるという作業であり、事後の点検でしかありません。しかし、それはこれから開けている未来の成功には何の保証にもならないのです。
だから彼らは練習するのです。研究するのです。不条理な偶然の支配があるからこそ、それが本人の意にはならないからこそ、事後と事前の結びつきを見つけ出そうとするのです。繰り返しますが、それは成功の何の保証にもなりません。
 私たちが考えなければいけないのはこういう哲学です。結果との断絶という事態とどうつき合っていけばよいのだろうか、結果との断絶が裏とでたときに私たちを支えるのは何なのだろうか、そういう問いにおそらくイチローは答えるでしょう。それは僕が予測する範囲をでないのではないかと思っています。じつは、ルター、カルヴァンからはじまったプロテスタンティズムの倫理こそはその答えなのです。そして、ニーチェのいう「超人」はイチローとそれほど違ったところにはいないのではないでしょうか。

善悪の彼岸


 私は先にフィギュアスケートの安藤 美姫(上写真)をあげました。どうも日本人には今回の安藤選手のようなケースに故意に目をそらそうとするような〈不安のひきつり〉を感ずるのです。安藤選手にはイチロー物語がないのか?
 どうも、日本人には、努力しようが、子供のころからやっていようが、家族が支援しようが、そんなことと勝負は関係ないという偶然の神との対面に耐えられないところがあるように思えてならないのです。絶対とはそういうものだ、ということがわからない、わかろうとしない、わかろうとする勇気もない。
 学校はいま絶対評価へと移行しようとしています。ところが、いまだに〈努力したふり〉〈関心を示したふり〉〈毎回出席していた〉などという証をほしがるアホ教師のアホさと私は毎日つきあっています。大学受験に〈ふり〉が何の意味があるのです。それが絶対というものです。そこに善いも悪いもないのです。そこには偶然という神との、無限の断絶をはさんでの対面があるだけなのです。努力しようが、一生懸命やろうが、到達したか、しなかったかは本人の計らいのそとにある、これが絶対評価というものなのです。イチローをそこからみなければいけません。善いも悪いもない、たまたまヒットだった、たまたまこうなった、自分は禅の修行僧のように、一打席一打席ボールを見ていただけだ、当初の好きだからという野球へのとりくみが、結果として善悪の彼岸へとむかってしまう、そういう物語を私はイチローにみるのです。そして、それは途方もないことなのです。
 そして、そうした一打席一打席の結果が、凶と出て、成功に導かれなかった人生を私たちはどう生きるのか、どう受け止めるのか、ユニクロの柳井社長がおもしろいタイトルの本を書いています。それは、『一勝九敗』というタイトルの本です。
 私は、一勝九敗なら、いいんじゃない(笑)って思いますよ。
 大学院を社会人で受験して、落ちまくった時、妻も見捨てたんです(笑)。いや、妻は真っ先だったかもしれない(笑)。生徒によくいうんです。
「妻も見捨てました。でも、僕は僕だけは僕を見捨てはしないぞって自分に言ってやりました」って。1勝9999敗が正解かもしれないんですよね。それも、9999敗の後に1勝が来るっていう感じかな、そういう自分を支える哲学を、私はイチローに見たいですね。そういうことなんですよ、きっと。

一勝九敗 (新潮文庫)



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5 コメント

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Unknown (setuna)
2010-09-28 00:08:42
『妻も見捨てました。でも、僕は僕だけは僕を見捨てはしないぞって自分に言ってやりました」って。1勝9999敗が正解かもしれないんですよね。それも、9999敗の後に1勝が来るっていう感じかな、そういう自分を支える哲学』


 先生は、以前からここを強調するのです。この9999敗の後に1勝がくるって感じ・・・自分を支える哲学
これ自体を、私たちは学校という空間で学ぶことが出来ません。私たちが学校空間で念仏のように、お題目のように教え込まれるのは、9999敗もしたら負け犬だってことです。
 私は、ここ数年、何故先生の授業にリピーターが付くのかということを見つめてきました。オブラートに包んでも先生の授業はある意味では強烈なのです(笑)。しかし、それでも根強いリピーターがいるのです。ただ単に人柄というもので履修登録したのではない選択が存在します。
 そこで感じるのは、9999敗した後の1勝のために、自分で自分を支えてみよというメッセージが、授業に込められているということです。

 そのいい例がコンテストです。君の意見は誰も賛同しないかもしれないよ。しかし、参加せよ。参加しなければ他の共感は得られない。さあ、どうする?!と煽るのです。
そこには、9999敗負けてもいいよ、それでもそのあとの1勝のために自分の頭で考え、自分で勝負しろ、先ずやってみよと言われ続けているようにしか感じられないのです。
つまり、学校は間違うところだ、転んでいいところだ、最後に自分で納得したところに到達したら、それが勝ちだと言われているように感じる生徒が、リピーターとなるのではないかということです。

 学校空間では、負けてそれでもその自分を愛してやれなどとは教えないのです。そんな自分を愛してはいけないプレッシャーも存在します。負けたお前が悪いのだ。努力が足りないから悪いのだと言われるのです。負けた後の1勝の・・・それも自分のための1勝のために努力するのとは大きく違います。結果としての努力ありきなのです。
昭和はまだマシでした。努力すれば夢は叶うと言われていました。しかし、現代の生徒は、努力しても夢は叶わないかもしれないよと言い渡されます。それで誰が努力するというのでしょう。
社会は今や、自分の幸福を自分で決めていいのだという風潮に変わりつつあります。自分なりの幸福のために努力するという方向に転換してきています。しかし、学校という空間は旧態依然で、『努力』が先に来て他人が勝手に想定したレールの上です。
 本当に自分の幸福のために行動する人は、自然と努力するのではないか・・・だれが何を言おうと、それを他人が努力と呼ばなくともしてしまうのではないかと、イチローを見ているとそう思わざるを得ません。
そして、自分を信じてやれるということが、幸福に思えてなりません。
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負けの意味 (Kimura Masaji)
2010-09-29 22:32:51
■コンテストという企画をいつかやってみたい、と考えてきました。実践に移してかれこれまだ5年くらいなんです。setunaさんが体験されたディベートも現在、バージョンアップ中ですが、あれも勝ち負けをはっきりさせるんです。そのうえで、多様な参加を求めるというのが、趣旨です。■しかし、どう考えても現在の学校教育では、失敗したり、負けるということに対しての学習がないんです。そのときに、私たちが考えなければいけないのが、負けたときの利益がどうやって制度化されているのか、されていないのか、だと思うのです。なぜか、負け甲斐をおしえないんですね。この問題と、それから、格差の問題ですね。参加の意欲をそぐ、格差が存在しては、参加の意味がなくなるのです。両方の意味で、負ける意味がきわめて現在は希薄ですね。■ちなみに、コンテストのように、勝敗が誰にも知られることがないという競争システムを自由主義と考えましょう。それから、ディベートのような固有名が、あるいは、顔がはっきりしてしまうような参加システムを民主主義と考えてみましょう。この双方のシステムをいかに組み合わせて学校に適切な競争社会が実現するかを考える必要があるように思えます。
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格差とは? (setuna)
2010-09-30 00:13:44
 格差の問題とお書きになられました。この時の格差とは何を指すのでしょうか・・・。
 負ける経験をし、そこから学ぶ経験をしていない人と、負けから跳躍出来てしまう人の格差なのでしょうか?

 私が経験した授業でのコンテストやディベートでも格差は生じていたのだろうか・・・。
 私は格差を肌で感じていた生徒はいないように思えるのです。そこは、もしかしたらkimura magic かもしれませんが、それこそ凄く負けた敗北感を味わった人はいないように感じます。例えば、コンテスト後の感想に書かれているそれぞれの思いは、「こう表現すれば良かった」「参加すれば良かった」「悔しいけど、次は参加してみよう」という意見もあった筈です。
 むしろ、そこには清々しささえ感じます。
ということは、本当に格差があったのかが疑問に感じられます。最初から自分は駄目なんだなどと思ってはいない。むしろ、もっと強かな全能感さえ感じます。

この、「格差」の部分を、少し解説していただけたらと思います。

 
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間違い (setuna)
2010-10-02 10:59:40
 一つ、自分の書き込みの間違いに気が付きました。先生の授業のコンテストやディベートは、そもそも負けてもいい(間違っていい)ことが伏線にあります。ですから、生徒が感想に書いたような清々しさやある種の全能感みたいものは、あって然るべきものです。
 問題は、それを他の授業では感じられないということです。

そして、負けた時の利益を考える時、「保証される」ということなのではないかと私個人は考えます。
 先生のレスの後半に、自由主義と民主主義の一義的に考えることのできない思想の組み合わせとありました。どちらにも共通して言えるのは、「負けること」も「勝つこと」も教育の現場で保証されるということではないでしょうか?
 実際の学校教育、特に進学校では、一見勝つことが保証されているように感じられますが、実は
『勝つこと/負けること』という両者が保証されなければいけないということではないでしょうか。
勝った時どうするのか、負けた時どうするのかという多様性が選択できないのは、どちらも良しとすることを保証されていないように感じるのです。
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野ブタをプロデュース (Kimura Masaji)
2010-10-09 07:12:51
setunaさんへ。
お返事が遅くなりました。ご指摘いただいた点はきわめて重要です。まず、格差ですが、これは、単純に、こう答えます。つまり、私の授業に参加しない、単純に出ない、という生徒は山程もいます。授業へ参加することさえ意欲がわかない、不登校、中途退学ときりがないのです。これが、格差の現実です。私にはお手上げという生徒は残念ながら、多くいるのです。それは、それとして、少し前に、むらちゃんという方がコメントを下さり、そのお返事にふと「野ブタをプロデュース」という、ドラマを思い返しました。私は、もう50歳も半ばになろうとしているので、性急に現在の教育の矛盾を解決したいとは思っていないのです。そうではなくて、だからこそ、一つ一つの原理を確認し、そうした逆風に自分が耐えて、しかも、耐える作業そのものが自分のおもしろさや成長を保証する、ヘーゲルの言う止揚という弁証法ですね。そういう意味では、私が近年やってきたディベートにせよ、コンテストにせよ、成果だ、と考えています。誰もが参加できる、そして、あの集計結果の発表を教室で行うときのドキドキ、ああ、やっぱり、こんなだったかあ、という思いと、意外にはいったなあ、とか、1番だった人がおもしろがって(これだから選挙はおもしろい!)、いる姿とか、でも、いったいだれだかわからない、という謎とか、こうした制度の仕組みを研究する中からエントリイのイチローに対するまなざしが変わるのではないか、と考えていますね。
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