授業の中抜け
単位制高校は、個々ばらばらの時間割で成り立っています。その個々人の選択を重視するのです。その単位制高校の原理をよく理解しない教員からでてくるおびえのひきつりに
中抜けをどうするか
という発想があるのです。生徒が、途中で欠席した授業の指導をどうするかというものです。単位制高校では、授業だけがあり、特定のクラスがありません。したがって、授業担当者は、その生徒が一日どのような経過をたどって現在にいたっているかを把握できません。
で、一日のクラスの生徒の経過をみて、中抜けしていたことがわかるわけです。
それが許せない、というのです。指導しなければいけない、というのです。みなさんは、おそらく、この教師の反応に賛成すると思うのです。
私も頭から反対はしません。それもあっていいだろう。しかし、大本の考え方をしっかりと持たなければいけないのです。
ラーメン屋の中抜け
たとえば、ラーメン屋へ入った客が一口食べて途中で店を出たとします。もちろん、口に合わなかったからです。で、そのときに、
「ちょっと待ちなさい。座って!全部食べていきなさい」
とラーメン屋が命ずることはあり得ませんね。
このありえない図が堂々とまかり通っているのが学校なのです。中抜けという発想はここにあります。美味くもない、食べる気にならないと、飽食の時代の顧客が、席を立つ、この図を入れることを学校は迫られているのです。顧客というコンセプトの導入です。
校長の責任
校長は、人事が全てです。どのような人事をするか、その決定をする。ラインナップを、宣伝し、うちの学校にはこういうスタッフがいます。このような需要にお答えします。こう宣言して、店を開くのです。そのときに、空室率や顧客満足度や、売れ筋の調査は重要ですね。中抜けがあったとします。中抜けとは顧客が逃げたということです。株主がいたら、その売り上げが落ちるということを意味します。株主に対する責任が生じます。つまり、中抜けとは、自分たちの商品が売れていないということを意味するわけです。これがどうして恐怖なのか?責任なのか?わかりますか?
競争原理
現在、これが恐怖でないのは、単純な理由で説明できます。
競争がないからです。中抜けした、ということは、その外にこういう存在が存在したときに恐怖に変わります。その学校を一歩出ると
「うちにはこういうスタッフがいます。こういう商品を用意しています。みなさんの満足をきっと勝ち取ります」
中抜けした生徒はそちらの商品を買うのです。評判は立ちます。そうか、そっちのほうがいい商品=授業があるのか?
こうして、売上が落ちます。株価は落ちます。経営者の責任が問われます。
だから、本当ならば、管理職は
「だれの授業だ!中抜けされているのは?」
と中抜けされている教員の責任を問わなければ校長の責任となってしまうのです。そうです。ここで責任を問われるのは、中抜けされている教員のほうなのです。
同一時間に複数の同一授業を展開できる
単位制は授業の学校です。だから、こういうことが可能なのです。同じ、英語の授業で、同一の時間に複数の担当者がそれぞれの個性の下に、こまやかな生徒の需要にこたえようとしている。そのなかで、競争があります。その競争は品質が同じならば、異ならなければなりません。異なるメッセージを、多様に向けて発散する。それが単位制高校の売りなのです。しかし、その多様が、あらかじめ売れるなどという証明はだれもできません。そこに、賭けが発生するのです。
クーリングオフという発想
中抜けは、重要な、需要を測る指標なのです。自由に中抜けしてもらう。そして、できるならば、クーリングオフをしてもらう。そのなかから、細やかな、多様な需要を私たちは事後として獲得できるのです。
中抜けがなければ、私たちは本当の需要を獲得できない。しかし、中抜けはあってはならない。これが単位制高校のパラドクスなのです。
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>ラーメン屋の中抜け
そういえば、最近は美味いラーメンも不味いラーメンも、逃げずにちゃんと食べるようになりました。つまらないから欠席ーという授業は、以前と打って変わってなくなったなぁと…
まぁ、最近は食べないと生きていけないくらいお腹が空いてるというか、知的好奇心が強くなったというか、いいかげん進学に本腰を入れないと将来が危ないと思い始めたもので。
それで、やっぱり授業を受ける側としては、その時間できるだけ美味しいラーメンを食いたいので、教師は利用できるだけ利用して、気分良く腹を満たしたいと思いますね…
それにしても、挙手して発表をしようとするときに周りの目が痛いww
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このたびあは、私のブログへお越しいただきありがとうございます。私も、そちらのブログへとお邪魔させていただきたいと思っています。今後ともごひいき賜りますようお願いします。
■どうも!■そうですか、出てますか。ところで、どうでしょうか?ゆーたろーさんからみて、中央高校ではたとえば、最初の授業をうけて、次の授業を欠席するという「中抜け」という概念がありますか?■ときどきね、生徒さんが「先生すいません、この前の授業休んじゃって」っていうような言い訳をきいたようなことが何度かあったように思えます。■そうした意味で、罪悪として中抜け、なり、授業のサボり、つまり怠業が、どの程度中央高校にはあったのか、そして、それは、教員のどのような対応があるからか、もしよかったら、意見を教えてください。
それから、論点の二つ目ですが、たまたまいま授業で扱っているテーマとぴったりだったので、エントリを立てました。僕の名前のところをクリックしてもらうと飛びます。
ま、私たちはルサンチマンという共通の概念をもっています。ま、その周りの痛い視線の意味はルサンチマンなんでしょう。そして、それは、極めて暴力的なんじゃないでしょうかねえ。そうです。本宮さんですよ。
「だれだ!!!!」