高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

絶対評価・氏名と顔の不一致・権利「パス」

2004-08-06 14:29:24 | 授業・教科指導
 今年から僕は授業に臨んで三つの点を生徒のみなさんに強調しています。
一つは「絶対評価」です。二つめは「名前と顔が一致しないように努力する」ということ、そして三つ目が僕が指名をしたときに答えたくなければ「パス」をすることはOKという「パス」権をもってもらうことである。(全ての生徒に対して最上の敬語などということは当たり前、お客様なのだから)。
 授業態度・出席状況という単に「恭順」を迫る要素はいっさい成績の評価に入れない、としたとき、生徒は自由に発言し、教員の授業に対しても意見や質問が可能となるはずである。少なくとも、教員の側の規制条件はかなり除去されるはずである。つまり、「教員のせいで発言はできない」といういいわけは除去される。小姑のように、ネチネチ授業態度がどうのこうの、などという穴メドの小さいことはなくなるのだから。
「授業中何をしてもいいのか」
こういうおびえた声がすぐに聞こえそうである。
 よかねえに決まっているではないか。そこでこそ、真摯に私たちの技量が試されるのです。聞かせられない人間は授業が成立しないのです。これを僕は自分に課している。僕のような教養科目はそこで死ぬほどの厳しさを自分に課さなければいけないと僕は考えています。
 くわえて顔と名前を一致させないでみてみよう。それでも教員と生徒がコミュニケーションするのです。しかも、生徒に「指名パス」権をもってもらおうじゃないか。つまり、生徒はいっさいのいいわけをこれで捨てさせられるのだ。すべて自分の意志ではないか。それでも内職しているだの、ケータイをやっているだの、というのであれば、他の自分にとっていい教員を探せばいいのです。そういうシステムを徹底して挿入すればいいのです。僕はいま、クラスの生徒との面接でそこを徹底してきいています。
「選びましたか?」「選べましたか?」「はずれはありませんでしたか」
 生徒は甘いのです。甘いからアドバイスが必要なのです。僕はある生徒に
「あなたは極力授業にでないで済むようにしたいのではないですか。ろくな授業がないから」と提案してみました。
「そうだ」といいます。
「ならば、すべてその担当の授業にでる必要などまったくありません。そういう生き方で卒業をするという次善をいかに選択するかを懸命に考えましょう。ふざけた教員がいたら、私にいって来てください。あらゆる合法的手段を使ってあなたに有利になるようにしましょう。その上で、あなたにあった教員を懸命に探るのです。今の教員の何があなたに不足なのか。何があなたに履修を促進させないのか。そのつまづきの石を撤去すればいいのです。」
 さて、そのとき、生徒による教員の評価というデータは絶対に不可欠の要素になるのです。そして、中央高校は教員がたえず、ニーズに合わなければその時点で退去というシステムを徹底させることができる、いやならざるをえない学校なのです。殿様バッタのバカ教師はこうして消えるし、生徒もケータイをやるいいわけはなくなるのです。そこではじめて、生徒も私たちも学ぶ意味をためされるのです。
「基礎学力が落ちている」というのはまちがいです。大体落ちているのは教員の基礎学力です。法律の基礎も知らない。歴史もろくろく勉強はしていない。人が聞く知の体系についての基礎的な哲学的素養もない。経済についての生きた状況認識もない。ないないづくしじゃないですか。入れ替えを本気でするよりありません。
さて、生徒による教員評価です。今年僕は生徒とともにそれに取り組もうと思います。そして、結果として僕が消されるかもしれません。そしたら、勉強するまでじゃないですか。努力するまでじゃないですか。

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絶対評価の意味が伝わらない (木村正司)
2004-10-10 13:19:15
後期が始まった最初の授業で、僕は今回から絶対評価がはじまったということを宣伝しています。ところが、まったくこの「革命的事件」が理解されません。

僕らの業界用語でいえば「人の支配」から「法の支配」になったということなのです。これで教師がどんぶり勘定で成績をつけることはできないし、何について何点かを明示して、どこまで届いたから自分は何点の評価がついたかを知る権利が生徒にあるので、教師は説明しなければいけないわけです。それができなければ、上の管理者にいえばいいわけです。



「絶対評価ではないではないか」



 これに対して管理職は命令して、成績をつけかえさせなえければいけなくなります。

 この結果

1 生徒は「疑心暗鬼」になって成績で怯えることはなく なります。



2 説明責任が教員になって

 「どうしてこの点数がついたのか、どうすれば成績は上 昇するのか」という点について説明しなければならなく なるのです。大体、授業態度や出席など絶対評価できま せん。



 これらがクリアーされることによって、学校がもっともっと風通しのよいものになります。説明できない教師は、生徒が「評価」すればいいのです。その意味での「授業評価」ではないですか。

 学校が生徒の理解や、生徒が将来へ向けての希望を掴む場へと変わるチャンスなのです。



 しかし、現実はことなります。中央高校の生徒を見ていると、成績というものにたいする諦めと、そんなものをあげたところで何になる、という学校そのものに対する諦めがあるんです。学校は授業料払うかわりに、何もしないで単位だけくれ、こういう場に学校がなってしまっています。それが徒労感を深めるのです。
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