古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~本木昌造

2009-12-09 12:05:38 | 長崎の歴史
本木昌造関連補足

(5)

活版印刷に使われる活字の話~その3


増刷さえ行なわなければ、

活字版は経済的であり、

また、整版に比べて多少いびつな文字の並びになったり、

凹凸によって文字ごとの濃淡ができたとしても、

小部数の出版には、木活字版は適していた。

また、その特徴として、小部数の発行であったことから、

幕府公儀の許可を得なくても出版することが可能であった。

そのため、堂々と出版できない類いの

思想性を帯びた図書などが、

木活字版として出版された。

幕末期の日本では、外国との交流の気運が高まり、

西ヨーロッパの技術を移入しようという試みがなされた。

活字もまた同様で、

大鳥圭介、島霞谷、本木昌造らが試行し、

一定の成果を得た。

ヨーロッパにおける東洋学のなかで、

日本語活字が製造されたりもしている。

ジェームス・カーティス・ヘボンは

和英辞典の出版を考えたが、

日本では印刷できずに

中国上海に渡り美華書館で印刷した

(『和英語林集成』1867年出版)。

岸田吟香の字を基に片仮名活字が作られている。



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幕末の長崎で活躍した人~本木昌造

2009-12-08 12:15:29 | 長崎の歴史
本木昌造関連補足

(4)

活版印刷に使われる活字の話~その2


江戸初期には盛行した木活字印刷であるが、

その後、版本の主流は、

活字ではなく版木による整版印刷本に移り変わる。

これは、近代の活版印刷と異なり、

組み直しに時間と手間がかかり、

増刷のたびに校正を伴うなど、

利便性とコストにおいて、劣勢であったことに起因する。

一方の整版印刷は、

刻工の手で板木を彫るにはコストと手間がかかっても、

増刷も容易であり、版木を蔵する(蔵版する)ことによって、

版権も容易に維持できるなどのメリットが大きかった。

しかし幕末までの間、木活字による印刷出版は、

主流とはならなかったものの継続された。

そのような木活字本を、

江戸初期の木活字版と区別するために、

近世木活字本と呼ぶ。

また、幕末には、この近世木活字版による出版は、

個々の出版部数は百部以下と少数であったが、

一部では非常に盛行した。

その理由は、

今日の私家版や自費出版に相当するような印刷物を

出版するのに、木活字版が適していたことによる。



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幕末の長崎で活躍した人~本木昌造

2009-12-07 12:24:40 | 長崎の歴史

本木昌造関連補足

(3)

活版印刷に使われる活字の話~その1


膨大な数になる日本語を活字で印字しようとしたのは

16世紀イエズス会がグーテンベルク系の印刷機を持ち込み、

教育や伝道に用いる書物を印刷した

キリシタン版と呼ばれるものに始まる。

しかしこれは定着することはなかった。

豊臣秀吉が朝鮮へ出兵した際、文禄2年(1593)に

朝鮮の金属活字を日本に持ち込み、

後陽成天皇に献上するも

日本において普及することはなかった。

しかし、木活字本などの印行を活発にし、

古活字版と呼ばれる書物が印行され、

出版文化の基礎を築いた。

慶長勅版(慶長2~4年)、

伏見版(慶長6~11年)が木活字で作られた。

伏見版で使われた木活字の一部が、

開版の地であった円光寺に今もって保存されている。

古活字版は市場に対応できず、

整版に譲って、印行部数も少なく

写本と同じ扱いであった。

キリシタン版及び嵯峨版は、

連綿させた複数の字で一つの活字のブロックを作ったもの

(連綿活字)を多用しているが、

それ以降は散見されるのみであった。




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幕末の長崎~本木昌造関連~補足

2009-12-05 12:15:19 | 長崎の歴史

本木昌造関連補足

(2)

「平野富二」

本木を助け事業を発展させた功労者として

「平野富二」を外せない。

彼は本木の息子の面倒までよくみている。



平野富二(ひらの とみじ)

弘化3年(1846)8月14日)~(1892)

実業家。石川島造船所(現IHI)創立者。

矢次豊三郎とみね

(神辺隆庵(謙)と草野千秋の女マスとの次女)

の間に生まれた次男

兄重平は矢次家を嗣ぎ、次男富二は平野家に入った。

文久元年飽の浦にあった幕府の

長崎製鉄所機関手見習を仰せ付けられ、

本木昌造に師事、チャーチル号機関手となり、

慶応2年回天艦機関手として下関戦争で活躍。

明治2年新政府の

長崎製鉄所兼小菅造船所(ソロバンドック)所長となり、

後の三菱造船所の基礎を築いた。

明治4年これを辞し、東京に進出

明治5年築地活版所を創立

鋳造活字製造及び印刷事業に成功するや、

明治9年石川島に民間事業としての造船所を創設し、

その社長として恩師本木昌造の遺児を迎えた。

さらに機械製造、航海、海運、鉱山、土木業に拡張

明治20年民間造船所として鉄製軍艦「鳥海」を建造

東京最初の鉄橋吾妻橋を架設

東京湾汽船株式会社の社長となる。

終始一貫して官業及び渋沢栄一らの政商と対峙

自由民権の地盤において福沢諭吉とは相許

民間鉄工業の発達に寄与し、

国産鉄管の使用を強調、その演説中に倒れた。

明治25年、まだ47歳であった。

従五位を贈られている。



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展覧会情報を更新しました

2009-12-04 12:55:27 | HPの更新情報
長崎県美術館で「オルセー美術館展」が開催されます。

   2009年12月11日(金)~2010年2月28日(日)


 同館の常設展示室では「菊畑茂久馬~ドローイング」展も開催中

   2009年11月12日(木)~2010年2月7日(日)


長崎歴史民族資料館においては

 長崎の貿易商「村上家」より寄贈の特別資料展を開催中


長崎歴史文化博物館では「阿蘭陀とNIPPON」展が好評です。


長崎にお越しの予定がありましたら覗かれてみては?



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   展覧会の案内のページ  

 

幕末の長崎~本木昌造関連~補足

2009-12-03 12:25:32 | 長崎の歴史
本木昌造関連補足

(1)

「長崎製鉄所」

幕末期に作られた製鉄と船舶の修理・建造を行う工場。

長崎製鉄所は幕府が安政2年7月に

海軍伝習所を開いたのに付随して、

安政4年(1857)8月に

オランダから機械類を購入して製鉄所を起工、

文久元年(1861)4月に落成。

創設時は「長崎鎔鉄所」

文久3年、神戸に海軍操練所造艦局が新設され、

長崎製鉄所はその所属となる。

当時、日本の製鉄所は長崎と横須賀の2箇所であり、

規模も小さかったようだ。



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幕末の長崎で活躍した人~本木昌造

2009-12-02 11:25:12 | 長崎の歴史
「本木昌造」

(11)

エピソード

本木は外国の文書を翻訳する部署を

幕府内につくることを勧め、

実現したものは後に東京大学となっています。

通訳は江戸時代にも警戒された仕事でした。

「国家の栄誉・自由・利益に関してもっとも危険な者」

との酷評もありました。

江戸のことわざに

「大通詞の台所」

と言うほど、彼らが私腹を肥やし

豪勢な生活をしていたことも事実であろう、

と書かれています。

だが、経営に疎く

研究熱心で

教育者として生きた本木は?


 「船ツクルハ産業ナリ」

 「橋カケルハいんふらナリ」

 「活版スルハめでぃあナリ」

 「翻訳スルハ理念ナリ」

 「国ツクルハ教育ナリ」
 
本木が残した言葉です。



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幕末の長崎で活躍した人~本木昌造

2009-12-01 10:55:28 | 長崎の歴史
写真は大坂に建つ本木昌造像



「本木昌造」

(10)

エピソード

失敗をくり返し貧苦のどん底にあえいでいたころ、

米国人技師ガンブルと知り合い、

彼の指導と援助でついに

「電胎法母型による活字鋳造」に成功する。

神奈川県令今井関盛良はこの話を小耳にはさみ、

さっそく昌造の印刷で「横浜毎日新聞」を刊行。

そのすばらしい出来栄えを、

知人の大阪の実業家五代友厚にみせびらかす。

西洋通で知られた友厚は、

かねがね英和辞書を刊行したいと思っていたので

北久太郎町に「大阪活版所」を設立、

「辞書は印刷技術だけではない。

 語学に堪能な貴殿なら適任だ」と、

昌造のプライドをくすぐって勧誘、

資金五千円也を提供した。

昌造が大阪の活版事業に大きく貢献するもとになる。

これが「薩摩辞書(別称・南海事典)」である。

薩摩辞書は明治期の西洋文化の吸収に、

多大な貢献をした。

活字印刷の重要性が改めて認識される。



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