本木昌造関連補足
(2)
「平野富二」
本木を助け事業を発展させた功労者として
「平野富二」を外せない。
彼は本木の息子の面倒までよくみている。
平野富二(ひらの とみじ)
弘化3年(1846)8月14日)~(1892)
実業家。石川島造船所(現IHI)創立者。
矢次豊三郎とみね
(神辺隆庵(謙)と草野千秋の女マスとの次女)
の間に生まれた次男
兄重平は矢次家を嗣ぎ、次男富二は平野家に入った。
文久元年飽の浦にあった幕府の
長崎製鉄所機関手見習を仰せ付けられ、
本木昌造に師事、チャーチル号機関手となり、
慶応2年回天艦機関手として下関戦争で活躍。
明治2年新政府の
長崎製鉄所兼小菅造船所(ソロバンドック)所長となり、
後の三菱造船所の基礎を築いた。
明治4年これを辞し、東京に進出
明治5年築地活版所を創立
鋳造活字製造及び印刷事業に成功するや、
明治9年石川島に民間事業としての造船所を創設し、
その社長として恩師本木昌造の遺児を迎えた。
さらに機械製造、航海、海運、鉱山、土木業に拡張
明治20年民間造船所として鉄製軍艦「鳥海」を建造
東京最初の鉄橋吾妻橋を架設
東京湾汽船株式会社の社長となる。
終始一貫して官業及び渋沢栄一らの政商と対峙
自由民権の地盤において福沢諭吉とは相許
民間鉄工業の発達に寄与し、
国産鉄管の使用を強調、その演説中に倒れた。
明治25年、まだ47歳であった。
従五位を贈られている。
古美術崎陽HP