古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎~本木昌造関連~補足

2009-12-05 12:15:19 | 長崎の歴史

本木昌造関連補足

(2)

「平野富二」

本木を助け事業を発展させた功労者として

「平野富二」を外せない。

彼は本木の息子の面倒までよくみている。



平野富二(ひらの とみじ)

弘化3年(1846)8月14日)~(1892)

実業家。石川島造船所(現IHI)創立者。

矢次豊三郎とみね

(神辺隆庵(謙)と草野千秋の女マスとの次女)

の間に生まれた次男

兄重平は矢次家を嗣ぎ、次男富二は平野家に入った。

文久元年飽の浦にあった幕府の

長崎製鉄所機関手見習を仰せ付けられ、

本木昌造に師事、チャーチル号機関手となり、

慶応2年回天艦機関手として下関戦争で活躍。

明治2年新政府の

長崎製鉄所兼小菅造船所(ソロバンドック)所長となり、

後の三菱造船所の基礎を築いた。

明治4年これを辞し、東京に進出

明治5年築地活版所を創立

鋳造活字製造及び印刷事業に成功するや、

明治9年石川島に民間事業としての造船所を創設し、

その社長として恩師本木昌造の遺児を迎えた。

さらに機械製造、航海、海運、鉱山、土木業に拡張

明治20年民間造船所として鉄製軍艦「鳥海」を建造

東京最初の鉄橋吾妻橋を架設

東京湾汽船株式会社の社長となる。

終始一貫して官業及び渋沢栄一らの政商と対峙

自由民権の地盤において福沢諭吉とは相許

民間鉄工業の発達に寄与し、

国産鉄管の使用を強調、その演説中に倒れた。

明治25年、まだ47歳であった。

従五位を贈られている。



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