当初定員は1名で、南蛮船が入港し
現地事務が繁忙期となる前(6月頃)に来崎し、
南蛮船が帰帆後(10月頃)に江戸へ
帰府するという慣習であった。
しかし、島原の乱後は
有事の際に九州の諸大名の指揮を執るため
寛永15年(1638)以降は
必ず1人は常駐する事になった。
寛永10年(1633)2月に2人制となり、
貞享3年(1686)には3人制、
ついで元禄12年(1699)には4人制、
正徳3年(1713)には3人制と定員が変遷し、
享保期(1716~1736)以降は概ね2人制で定着する。
天保14年(1843)には1人制となったが、
弘化2年(1845)からは2人制に戻った。
定員2名の内、1年交代で江戸と長崎に詰め、
毎年8月から9月頃、交替した。
また、延享3年(1746)以降の一時期は
勘定奉行が兼任した。
古美術崎陽
長崎の歴史
現地事務が繁忙期となる前(6月頃)に来崎し、
南蛮船が帰帆後(10月頃)に江戸へ
帰府するという慣習であった。
しかし、島原の乱後は
有事の際に九州の諸大名の指揮を執るため
寛永15年(1638)以降は
必ず1人は常駐する事になった。
寛永10年(1633)2月に2人制となり、
貞享3年(1686)には3人制、
ついで元禄12年(1699)には4人制、
正徳3年(1713)には3人制と定員が変遷し、
享保期(1716~1736)以降は概ね2人制で定着する。
天保14年(1843)には1人制となったが、
弘化2年(1845)からは2人制に戻った。
定員2名の内、1年交代で江戸と長崎に詰め、
毎年8月から9月頃、交替した。
また、延享3年(1746)以降の一時期は
勘定奉行が兼任した。
古美術崎陽
長崎の歴史