『町年寄』~24
~幕府瓦解後の町政~1
慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いで
幕府軍が敗れたと知らされた
長崎奉行・河津伊豆守祐邦は、
1月14日の夜にイギリス船で江戸に脱出。
河津に後を託された福岡藩聞役の粟田貢は、
当時長崎にいた諸藩の者や
長崎の地役人の薬師寺久左衛門達と協議し、
新政府からの沙汰が下るまで
これまで通りに諸事を取り図る事を決める。
諸藩の藩兵や地役人の子弟や
地元の剣客で組織された振遠隊が治安の維持に当たり、
薩摩藩や長州藩等16藩による協議体が
長崎の政務を合議で行う事となった。
長崎奉行所西役所に長崎会議所を設置し、
町方係を設け、その下で従来の乙名を肝煎行事と改め、
町方行政を担わせた。
古美術崎陽
長崎の歴史
~幕府瓦解後の町政~1
慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いで
幕府軍が敗れたと知らされた
長崎奉行・河津伊豆守祐邦は、
1月14日の夜にイギリス船で江戸に脱出。
河津に後を託された福岡藩聞役の粟田貢は、
当時長崎にいた諸藩の者や
長崎の地役人の薬師寺久左衛門達と協議し、
新政府からの沙汰が下るまで
これまで通りに諸事を取り図る事を決める。
諸藩の藩兵や地役人の子弟や
地元の剣客で組織された振遠隊が治安の維持に当たり、
薩摩藩や長州藩等16藩による協議体が
長崎の政務を合議で行う事となった。
長崎奉行所西役所に長崎会議所を設置し、
町方係を設け、その下で従来の乙名を肝煎行事と改め、
町方行政を担わせた。
古美術崎陽
長崎の歴史