古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

長崎の歴史~正月編~10

2013-01-06 05:35:29 | 長崎の歴史


補足1

~吉雄耕牛~2


吉雄邸の2階にはオランダから輸入された家具が

配され「阿蘭陀坐敷」などと呼ばれたという。

庭園にもオランダ渡りの動植物にあふれ、

長崎の名所となった。

同邸では西洋暦の正月に行われる

いわゆる「オランダ正月」の宴も催された。

吉雄邸を訪れ、あるいは成秀館に学んだ蘭学者・医師は数多く、

青木昆陽・野呂元丈・大槻玄沢・三浦梅園・

平賀源内・林子平・司馬江漢など

当時一流の蘭学者は軒並み耕牛と交わり、

多くの知識を学んでいる。

大槻玄沢によれば門人は600余を数えたという。

中でも前野良沢・杉田玄白らとの交流は深く、

2人が携わった『解体新書』に耕牛は序文を寄せ、

両者の功労を賞賛している。

また江戸に戻った玄沢は、

自らの私塾芝蘭堂で江戸オランダ正月を開催した。

若くして優れた才覚を発揮していたため、

上記に記している青木昆陽・野呂元丈・前野良沢など、

自身よりも年上の弟子が何人も存在する。


  古美術 崎陽
    
     長崎の歴史



長崎の歴史~正月編~9

2013-01-05 05:55:04 | 長崎の歴史
補足2

~吉雄耕牛~2


通詞の仕事のかたわら、

商館付の医師やオランダ語訳の外科書から外科医術を学ぶ。

特にバウエルやツンベリーとは親交を結び、

当時日本で流行していた梅毒の治療法として

水銀水療法を伝授され、実際の診療に応用した。

オランダ語、医術の他に天文学、

地理学、本草学なども修め、

また蘭学を志す者にそれを教授した。

家塾である成秀館には、

全国からの入門者があいつぎ、

彼が創始した吉雄流紅毛外科は

楢林鎮山の楢林流と双璧を為す西洋医学として広まった。


  古美術 崎陽
    
     長崎の歴史

長崎の歴史~正月編~8

2013-01-04 05:35:55 | 長崎の歴史
補足1

~吉雄耕牛~1

吉雄 耕牛(よしお こうぎゅう)

享保9年(1724~1800)

日本の江戸時代中期のオランダ語通詞(幕府公式通訳)

蘭方医。

諱は永章、通称は定次郎、のち幸左衛門。幸作とも称する。

号は耕牛のほか養浩斎など。

父は吉雄藤三郎。

吉雄家は代々オランダ通詞を勤めた家系。


享保9年(1724)藤三郎の長男として長崎に出生。

幼い頃からオランダ語を学び、

元文2年(1737)14歳のとき稽古通詞、

寛保2年(1742)には小通詞に進み、

寛延元年(1748)には25歳の若さで大通詞となった。

年番通詞、江戸番通詞(カピタンの江戸参府に随行)

をたびたび勤めた。


  古美術 崎陽
    
     長崎の歴史

長崎の歴史~正月編~7

2013-01-03 05:55:32 | 長崎の歴史
~長崎の中国正月~


中国正月は「春節」ともいい、

春の訪れをことほぎ

豊かな季節の実りを祈って

中国で古くから行なわれてきた行事です。

特に、正月15日は「上元節」といい、

その夜(元宵)には、

家ごとに色鮮やかな燈籠を飾る習慣がありました。

燈籠見物は人々の楽しみの一つであり、

その燈籠のもとでは、数多くのロマンスも生まれました。

「燈籠の恋」がそれです。

中国の影響が大きかった長崎では、

貿易のため来日した華僑の間で広く行われていたようです。



  古美術 崎陽
    
     長崎の歴史

長崎の歴史~正月編~6

2013-01-02 06:05:46 | 長崎の歴史



~長崎の正月行事~


 年始廻り  元旦

 商初    二日(新しい暖簾を使う)

 絵踏み   三日(町年寄)

       四~七日(町民)

       八日(丸山遊女)
 
 この絵踏みは

 鎖国の直前からはじまったが、

 踏み絵の製作を命ぜられた古川町の

 萩原祐佐は作品のあまりの見事さに

 かえって切支丹と疑われて斬罪となった。

 江戸中期より形式化された年中行事となり、

 遊女達は「絵踏衣装」といわれる華美な衣装を競いあい、

 また見物人も嬌姿を見ようと群集したという。

 そして町民も遊女も絵踏がすむと

 「後賑やかし」とよぶ厄払いの盛大な祝宴をもよおした。

 明治に入ってこの絵踏みが廃止になった時、

 娘たちが「おやつし」をすることができなくなったのは

 外国人のせいだと、逆に恨んだほどであった。


  古美術 崎陽
    
     長崎の歴史




長崎の歴史~正月編~5

2013-01-01 05:45:04 | 長崎の歴史
~長崎の正月料理~

長崎のお雑煮

古くから交易で栄えた長崎では、

雑煮の具も山海の幸で盛りだくさんです。

具を10品以上入ることも多く、

なかでも鰤(ブリ)は欠かせない一品です。

具は焼いた丸餅、唐人菜、魚(鰤、鯛など)、

鳥だんご(鳥やキジの肉)、紅白のカマボコ、

海老カマボコ、干し海鼠、椎茸、結び昆布、

里芋、竹の子、クワイなど、大変豪華な品数。

正式にはこの中から7品、9品、11品の具が入り、

閏年には13品も入れられる。

煮出し汁は鰹節、昆布、椎茸のうま味が効いたすまし仕立て。

また、焼きアゴ(飛魚)からとる家庭も多い。

金蒔絵の雑煮椀に盛り付けられる。


  古美術 崎陽
    
     長崎の歴史

長崎の歴史~正月編~3

2012-12-30 06:15:17 | 長崎の歴史
『オランダ正月』~3


~江戸芝蘭堂のオランダ正月~2


記念すべき第1回の江戸オランダ正月は

津藩の市川岳山が描く『芝蘭堂新元会図』で知られ、

出席者による寄せ書きがされており、

当日の楽しげな様子が十分伺える。

大きな机にはワイングラス、フォーク、ナイフなどが置かれ、

部屋には洋式絵画が飾られている。

出席者は他に玄沢の師であり

すでに『解体新書』の翻訳で名を上げていた杉田玄白や、

宇田川玄随などがいた。

オランダ正月の背景には、

8代将軍徳川吉宗による洋書輸入の一部解禁以降、

蘭学研究が次第に盛んとなり、

この頃には蘭癖と称された

オランダ文化の愛好家が増加していたことがある。

蘭癖らの舶来趣味に加え、

新しい学問である蘭学が一定の市民権を得ていたことを受け、

日本の伝統的正月行事に把われることなく、

蘭学者たちが親睦を深め、

自らの学問の隆盛を願い、

最新情報の交換を行う集まりとして、

以後も毎年行われるようになっていった。

ただし、当時使用されていた寛政暦などの太陰太陽暦と

西洋のグレゴリオ暦とのずれは毎年異なっていたため、

便宜上、翌年以降は冬至

(太陽暦でも太陰太陽暦でも同じ日である)

から数えて第11日目に

オランダ正月の賀宴を開催するのが恒例となった。


  古美術 崎陽
    
     長崎の歴史

長崎の歴史~正月編~1

2012-12-28 04:45:38 | 長崎の歴史
『オランダ正月』~1

江戸時代に長崎の出島在住のオランダ人たちや、

江戸の蘭学者たちによって行われた

太陽暦(グレゴリオ暦)による正月元日を祝う宴である。

「紅毛正月」などと呼ばれることもある。


~長崎のオランダ正月~

元々は長崎出島のオランダ商館で、

日本在留のオランダ人が祝っていた風習であった。

江戸幕府によるキリスト教禁令のため、

表だってクリスマスを祝うことができなかったオランダ人が、

代わりとして冬至に合わせて「オランダ冬至」として開催し、

また日本の正月の祝いをまねて

太陽暦による正月元日に

出島勤めの幕府役人や出島乙名、

オランダ語通詞たち日本人を招いて

西洋料理を振る舞い

オランダ式の祝宴を催したのが始まりである。

これを長崎の人々は阿蘭陀正月と呼んだ。

やがて長崎に住む日本人

とりわけオランダ通詞らの家でも

これを真似てオランダ式の宴が催されることもあった。

異国の文化に関心をもっていた長崎の人たちは、

その様子を版画や絵画に描き残しています。

文政年間の『長崎名勝図絵』では献立が記されており

牛肉・豚肉・アヒルなどの肉料理や

ハム、魚のバター煮、カステラ、

コーヒーなどが饗されていたようだが、

招かれた日本の役人は

ほとんど手をつけずに持ち帰ったともいう。


  古美術 崎陽
    
     長崎の歴史

幕末の長崎で活躍した人~「カッテンディーケ」~1

2012-12-06 08:05:34 | 長崎の歴史
『ヴィレム・ヨハン・コルネリス・ホイセン・
 ファン・カッテンディーケ』

(Willem Johan Cornelis ridder
  Huijssen van Kattendijke)

1816年~1866年

オランダの海軍軍人、政治家。

日本においては単に「カッテンディーケ

(またはカッテンダイケ、カッテンデイケ、

 カッテンデーケなど)」

と表記されるが

「ホイセン・ファン・カッテンディーケ」が

正式な姓である。


   古美術崎陽
    長崎の歴史

幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~14

2012-12-04 05:35:08 | 長崎の歴史
補足~2

フルベッキは日本政府が

信教の自由を認めることを常に祈っていました。

また、もう一つ願いがありました。

日本が1858年に結んだ通商条約などの

不平等の是正を実現させたい

という二つの願いは一緒にかなえられます。

フルベッキはアメリカ、ヨーロッパに

不平等条約を改正するため

天皇の使節を派遣することを大隈重信に示唆します。

しかし、大隈重信は

二年たって、政府内に

不平等条約を何とかして改正したい

という議論がされるようになったとき、

大隈は岩倉具視にフルベッキの提案、

ブリーフ・ノートを示します。

欧米との交渉でこういうことを主張しなさい。

そうすればこういう反論がなされるでしょう。

それにはこう答えなさいと、

岩倉はその提案が余りにもぴったりなので、

驚いてフルベッキを招き説明を求めます。

まさに日本政府として願っていた事であったので、

それから二カ月更に詳しい計画を建て、

岩倉具視以下、内閣の大部分が行くという

三十数名の大使節団を編成し、

22カ月という思い切った長期の交渉と

視察の旅行をします。

その報告書は、

幕府から派遣された木村遣米使節団のものと比べ、

格段に優れています。

どうして初めて行く国で、

詳しい部分まで見ることが出来たのか不思議でしたが、

フルベッキの計画があったことが戦後明らかになり、

謎が解けました。

しかし、フルベッキの働きは

伝道局の部長にのみ報告されるだけで硬く秘密とされ

フルベッキの功績は表されませんでした。

(小生おもうに 、フルベッキの働きは、
日本の救世主ではなかろうか!!)とおもいます。                   




   古美術崎陽

    長崎の歴史