古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~13

2012-12-02 05:25:11 | 長崎の歴史
補足~1


オランダではVerbeekでフェアビークと呼ばれていた。

アメリカ移住のとき

アメリカ人が発音しやすいようにVerbeckと変えた。

青山墓地のフルベッキの墓碑銘が

Verbeekと刻されている、としている。

フルベッキが新婚のマリア夫人とともに

長崎に赴任したのは1859(安政6)年の11月。

翌年1月、マリア夫人は女児を出産したが、

日本が開国して、最初に生まれたクリスチャンの子供

であることを喜び、

エマ・ジャポニカ・フルベッキと名付けた。

しかし、数日にして天に召された。

フルベッキの長崎伝道は

このように悲しみのうちに始まったのである。

宣教師として来日したフルベッキだが、

伝道に専念できたのは晩年になってからだった。

巧みな日本語の講和で、

日本各地を伝道して廻るのが晩年のフルベッキの姿だった。


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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~12

2012-11-30 05:25:13 | 長崎の歴史
~英学の師フルベッキ~3


大隈はここで大変な秀才ぶりを発揮したらしく、

フルベッキが

「私は二人のごく有望な生徒をもった。

 それは副島種臣と大隈である。

 彼らは新約聖書の大部分を研究し、

 アメリカ憲法の大体を学んでしまった」

と賞賛した話が伝えられています。

そののち大隈は、さらに英学を広めるために

みずから「致遠館」という私塾をつくり、

フルベッキを校長に迎え、

自分も教師になって学習に励みました。

これがのちに早稲田大学の原点となったのです。

フルベッキは、明治政府の成立後東京に出て、

大隈らの推薦で開成学校・華族学校・

明治学院の教師や政府の翻訳顧問などをつとめ、

さらには旧約聖書翻訳委員や

ナポレオン法典を紹介するなど多面的に活躍しました。

しかし、1897年(明治30)東京で没し、

青山墓地に葬られました。




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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~11

2012-11-28 10:05:04 | 長崎の歴史
~英学の師フルベッキ~2


フルベッキは、オランダのユトレヒトに生まれ、

幼い時ギュツラフ博士の講演を聞いて

東洋への伝道を夢見た。

工業学校を卒業したのち、

しばらく鋳物工場で働き

成人して1852年に米国に渡り、

設計技師として働いていたが、

炎暑に倒れ死線をさまよった時、

「回復したら一生を伝道に捧げます」

と祈り、病癒えると

神学校に学んで敬虔なキリスト信者となります。

日本は1854年(安政元)に日米和親条約を結び、

1858年(安政5)に欧米諸国と通商条約を結んで開国。

日本への宣教師が派遣されることになり、

かねてからアジアへの布教を希望していたフルベッキが

それに応募し、同僚とともに1859年(安政6)に

新婚の夫人を伴い長崎に来たのでした。

29歳の時です。

キリスト教の伝道のかたわら、

塾を開いて日本の青年たちに英学を教える仕事を始めます。

佐賀藩の役人として長崎にきていた大隈が、

この英学塾で学び、大きな影響を受けたのです。



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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~9

2012-11-24 05:45:21 | 長崎の歴史
~フルベッキ写真~4


この写真の話題は

間歇的に復活して流行する傾向がある。

ちなみに最初に島田が推定した維新前後の人物は

22人であったが、流通する度に徐々に増加。

現在では44人全てに維新前後の有名人物の名がつけられている。

また、大室寅吉という名で

後の明治天皇が写っているとした説や、

「明治維新は欧米の勢力

(例:フリーメイソン)が糸を引いていた」説等の陰謀論、

偽史の「証拠」とされる例もある。



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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~8

2012-11-22 05:45:05 | 長崎の歴史
~フルベッキ写真~3


また、2004年(平成16)には、

朝日新聞、毎日新聞、日経新聞に

この写真を焼き付けた陶板の販売広告が掲載された。

東京新聞が行った取材では、

各紙の広告担当者は

「論議がある写真とは知らなかった」

としている。

また、業者は

「フルベッキの子孫から受け取ったもので、

 最初から全員の名前が記されていた」

と主張している。



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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~5

2012-11-16 06:35:28 | 長崎の歴史
フルベッキは7男4女をもうけた。

来日して間もなく生まれた女の子は、

日本にちなみ、エマ・ジャポニカ・フルベッキ

(1860年1月26日~2月2日)

と名付けられた。

短い生涯を閉じたこの娘は、


稲佐国際墓地に埋葬された。

息子のグスタヴ

(Gustave Verbeek、1867年~1937年)

はアメリカに渡り、

ニューヨーク・ヘラルド紙などに寄稿した漫画家となった。

また、孫のウィリアム・ジョーダン・ヴァーベック

(William Jordan Verbeck、1904年~)

は陸軍士官学校を卒業後、

アメリカ陸軍第24師団歩兵第21連隊長として

太平洋戦争に従軍、

レイテ島・リモン峠で第一師団と戦った。

彼については、大岡昇平の『レイテ戦記』に紹介されている。



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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~4

2012-11-14 05:45:14 | 長崎の歴史


また、オランダで工科学校を卒業した経歴から、

工学関係にも詳しく

本木昌造の活字印刷術にも貢献している。

来日時、長崎の第一印象を

「ヨーロッパでもアメリカでも、

 このような美しい光景を見たことはない」

と記している。

上野彦馬が撮影したフルベッキの写真が

長崎歴史文化博物館に残されている。


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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~3

2012-11-12 05:35:26 | 長崎の歴史
米国オランダ改革派教会から

布教のため上海から長崎に派遣されたが、

明治維新前の日本では

宣教師として活動することができなかった。

しばらくは私塾で英語などを教え生計を立てていたが、

やがて幕府が長崎につくった英語伝習所

(フルベッキが在籍した当時は洋学所、

 済美館、広運館などと呼ばれた)

の英語講師に採用された。


大隈重信、副島種臣と親交があった。


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~28

2012-11-03 05:35:12 | 長崎の歴史
~補足~18


南宗画の大家である富岡鉄斎と、

その息子謙蔵の2代による

70年間の大蒐集をまとめた富岡文庫。

その富岡文庫の入札会は、

国宝や重要美術品も取り上げられ、

昭和13、14年と二度にわたって

空前絶後のスケールで行われました。

入札会を取りまとめた古書店・鹿田松雲堂による

他とは一線を画した入札会だったようです。

昭和期最大の売りたてといわれ、

総売上げは記録破りの15万8千円。


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幕末の長崎で活躍した人~「富岡鉄斎」~27

2012-11-01 05:45:36 | 長崎の歴史
~補足~17


47歳の時に虎屋京都店のすぐ近く

室町通り一条下ル薬屋町に転居し

亡くなるまでの約43年間この地で暮らします。

虎屋14代店主黒川光景の実弟で

京都店支配人であった黒川正弘

「魁亭(かいてい)(1880-1948)」

とは非常に親しい関係にありました。

正弘を自分の名代として遣わすこともあり、

「拙者の愛弟子に御座候」と

元老だった西園寺公望に紹介した

という逸話も残っています。

虎屋が鉄斎の作品を所蔵しているのも、

このような交誼によるものです。

現在、使用している竹に虎の掛紙も、

虎屋のために鉄斎が描いたものです。


孫の益太郎や冬野は、

鉄斎の画室に遊びに行くと、

富岡家で「あんぽんたん」と呼ばれていた

軟らかいあられをお決まりのようにもらっていました。

口に入れるとフワッと溶けて食べやすいので、

高齢の鉄斎も常備の菓子にしていたのでしょう。

また益太郎は年に数回、

鉄斎のもとに名古屋から送られてくる

「元贇焼(げんぴんやき)」

をもらうのを楽しみにしていました。

これはケシの実を振った硬い焼き菓子だったようです。


晩年の鉄斎は甘い餡を使った菓子より、

「白ういろ」を好物としていました。

しかもその食べ方は山葵醤油をつけるというもの。

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