古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

長崎で活躍した人~「ケンペル」~6

2013-01-22 04:35:06 | 長崎の歴史
『廻国奇観』の執筆と同時期に

『日本誌』の草稿である「今日の日本」

の執筆にも取り組んでいたが、

1716年11月2日その出版を見ることなく死去した。

故郷レムゴーには彼を顕彰して

その名を冠したギムナジウムがある。

彼の遺品の多くは遺族により、

3代のイギリス国王に仕えた侍医で

熱心な収集家だったハンス・スローンに売られた。



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長崎で活躍した人~「ケンペル」~5

2013-01-20 06:25:08 | 長崎の歴史
1692年、離日してバタヴィアに戻り、

1695年に12年ぶりにヨーロッパに帰還した。

オランダのライデン大学で学んで

優秀な成績を収め医学博士号を取得。

故郷の近くにあるリーメに居を構え医師として開業した。

ここで大旅行で集めた膨大な収集品の研究に取り掛かったが、

近くのデトモルトに居館を持つ伯爵の

侍医としての仕事などが忙しくなかなかはかどらなかった。

1700年には30歳も年下の女性と結婚したが

仲がうまくいかず、彼の悩みを増やした。

1712年、ようやく『廻国奇観』と題する本の出版にこぎつけた。

この本について彼は前文の中で、

「想像で書いた事は一つもない。

 ただ新事実や今まで不明だった事のみを書いた」

と宣言している。

この本の大部分はペルシアについて書かれており、

日本の記述は一部のみであった。


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長崎で活躍した人~「ケンペル」~4

2013-01-18 05:45:17 | 長崎の歴史
その頃ちょうどバンダール・アッバースに

オランダの艦隊が入港していた。

彼はその機会を捉え、

使節団と別れて船医としてインドに渡る決意をする。

こうして1年ほどオランダ東インド会社の船医として勤務。

その後東インド会社の基地がある

オランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、

そこで医院を開業しようとしたがうまくいかず、

行き詰まりを感じていた彼に巡ってきたのが、

当時鎖国により情報が乏しかった日本への船だった。

こうして彼はシャム(タイ)を経由して日本に渡る。

1690年(元禄3)オランダ商館付の医師として、

約2年間出島に滞在した。

1691年と1692年に連続して、江戸参府を経験し

徳川綱吉にも謁見した。

滞日中、オランダ語通訳今村源右衛門の協力を得て

精力的に資料を収集した。



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長崎で活躍した人~「ケンペル」~3

2013-01-16 05:45:32 | 長崎の歴史
1683年10月2日、使節団はストックホルムを出発し、

モスクワを経由して同年11月7日にアストラハンに到着。

カスピ海を船で渡ってシルワン

(現在のアゼルバイジャン)に到着し、

そこで一月を過ごす。

この経験によりバクーとその近辺の油田について記録した

最初のヨーロッパ人になった。

さらに南下を続けてペルシアに入り、

翌年3月24日に首都イスファハンに到着した。

彼は使節団と共にイランで20か月を過ごし、

さらに見聞を広めてペルシアやオスマン帝国の

風俗、行政組織についての記録を残す。

彼はまた最初にペルセポリスの遺跡について

記録したヨーロッパ人の一人でもある。



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長崎で活躍した人~「ケンペル」~2

2013-01-14 05:05:19 | 長崎の歴史
故郷やハーメルンのラテン語学校で学んだ後、

さらにリューネブルク、リューベック、

ダンツィヒで哲学、歴史、

さまざまな古代や当代の言語を学ぶ。

ダンツィヒで政治思想に関する最初の論文を執筆した。

さらにトルン、クラクフ、ケーニヒスベルクで勉強を続けた。

1681年にはスウェーデンのウプサラのアカデミーに移る。

そこでドイツ人博物学者

ザムエル・フォン・プーフェンドルフの知己となり、

彼の推薦でスウェーデン国王カール11世が

ロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国)と

サファヴィー朝ペルシア帝国に派遣する使節団に

医師兼秘書として随行することになった。

彼の地球を半周する大旅行はここに始まる。



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長崎で活躍した人~「ケンペル」~1

2013-01-12 05:35:06 | 長崎の歴史



『エンゲルベルト・ケンペル』

(Engelbert Kaempfer)

ドイツ語読みではエンゲルベアト・ケンプファー

1651年~1716年

ドイツ北部レムゴー出身の医師、博物学者。

『日本誌』の原著者。


ノルトライン=ヴェストファーレン州の

レムゴーに牧師の息子として生まれる。

ドイツ三十年戦争で荒廃した時代に育ち、

さらに例外的に魔女狩りが遅くまで残った地方に生まれ、

叔父が魔女裁判により死刑とされた経験をしている。

この2つの経験が、

後に平和や安定的秩序を求める

ケンペルの精神に繋がったと考えられる。


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長崎の歴史~正月編~14

2013-01-10 04:45:46 | 長崎の歴史
補足2

~芝蘭堂~3


寛政6年(1794)オランダ商館長の江戸出府で

オランダ人と初めて対談した玄沢は、

これを機にこの年の閏11月11日が

西暦で1795年元日に当たることから、

芝蘭堂(この時期は京橋水谷町)に多くの蘭学者らを招き、

新元会(元日の祝宴)を催した。

世にオランダ正月と名高いこの宴はその後も毎年続けられ、

玄沢の子・玄幹の死まで44年間行われた。

芝蘭堂は文政10年(1827)の玄沢の死後も、

長男玄幹(磐里)が継ぎ、

さらに孫の玄東(磐泉)にまで引き継がれ、

江戸における蘭学学習の一大中心地としてあり続けた。

なお、洒落っ気も持ち合わせていた玄沢は

「しらんどう」の名をもじって「無識堂半酔先生」と号し、

「医者商」なる戯作も書いている。


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長崎の歴史~正月編~13

2013-01-09 04:25:22 | 長崎の歴史
補足2

~芝蘭堂~2


その後一時帰郷して家族を呼び寄せ、

天明8年(1788)三十間堀に移転。


この年、玄沢は蘭学の入門書『蘭学階梯』を著したことで、

斯界で大いに名を高めており、

この前後に私邸を「芝蘭堂」と称して開塾したと思われる。

塾名の「芝蘭」とは本来、霊芝と蘭のことを指し、

香りの良い草の総称として用いられる慣用句。

さらに転じて『孔子家語』の

「與善人居、如入芝蘭之室

(善人とともにいると

香草の香り漂う部屋にいるように感化される)」

「芝蘭生於深林、不以無人而不芳

(芝蘭は人のいない深林に生えていても

常によい香りを放っている)」

あるいは『晋書』の「芝蘭玉樹生庭階

(香りの良い草や美しい木は階段の近く

=優れた先生の側に生える)」

など古典漢籍に見られるように、

優れた人物や君子にたとえられる語である。


一説には元々杉田玄白の塾名であったものを譲り受けたともいう。

入塾した弟子は100名以上いたと思われる。

また芝蘭堂は玄沢の私邸でもあったため移転も多く、

たびたび転居している。


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長崎の歴史~正月編~12

2013-01-08 05:05:32 | 長崎の歴史



補足2

~芝蘭堂~1

芝蘭堂(しらんどう)は、

江戸時代後期、蘭学者大槻玄沢(磐水)が

江戸で開いた蘭学塾。

また玄沢の別号(堂号)でもある。

大槻玄沢ははじめ江戸で

杉田玄白・前野良沢から蘭学・医学を学び、

それぞれの号から一字を受けて玄沢と称した。

その後、天明5年(1785)長崎へ留学して

通詞本木良永・吉雄耕牛らからオランダ語を学ぶ。

翌年5月江戸へ戻り杉田玄白邸に身を寄せ、

仙台藩医として召し抱えられた。

8月には本材木町に居を構え、

「幽蘭堂」と称している。


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長崎の歴史~正月編~11

2013-01-07 12:45:21 | 長崎の歴史
補足1

~吉雄耕牛~3


寛政2年(1790)樟脳の輸出に関わる誤訳事件に連座し、

蘭語通詞目付の役職を召し上げられ、

5年間の蟄居処分を申し渡されたが、

復帰後は同8年(1796)蛮学指南役を命じられた。

寛政12年(1800)に平戸町の自邸で病没。

享年77。法名は閑田耕牛。

訳書には『和蘭(紅毛)流膏薬方』、

『正骨要訣』、『布斂吉黴瘡篇』、『因液発備』

(耕牛の口述を没後に刊行。

のちに江馬蘭斎が『五液診方』として別に訳出)など。

通訳・医術の分野でともに優れた耕牛であった。

子供で永久が医術を、

通詞は権之助(六二郎)がそれぞれ受け継いだ。

権之助の門人に高野長英らがいる。


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