1692年、離日してバタヴィアに戻り、
1695年に12年ぶりにヨーロッパに帰還した。
オランダのライデン大学で学んで
優秀な成績を収め医学博士号を取得。
故郷の近くにあるリーメに居を構え医師として開業した。
ここで大旅行で集めた膨大な収集品の研究に取り掛かったが、
近くのデトモルトに居館を持つ伯爵の
侍医としての仕事などが忙しくなかなかはかどらなかった。
1700年には30歳も年下の女性と結婚したが
仲がうまくいかず、彼の悩みを増やした。
1712年、ようやく『廻国奇観』と題する本の出版にこぎつけた。
この本について彼は前文の中で、
「想像で書いた事は一つもない。
ただ新事実や今まで不明だった事のみを書いた」
と宣言している。
この本の大部分はペルシアについて書かれており、
日本の記述は一部のみであった。
古美術崎陽
長崎の歴史
1695年に12年ぶりにヨーロッパに帰還した。
オランダのライデン大学で学んで
優秀な成績を収め医学博士号を取得。
故郷の近くにあるリーメに居を構え医師として開業した。
ここで大旅行で集めた膨大な収集品の研究に取り掛かったが、
近くのデトモルトに居館を持つ伯爵の
侍医としての仕事などが忙しくなかなかはかどらなかった。
1700年には30歳も年下の女性と結婚したが
仲がうまくいかず、彼の悩みを増やした。
1712年、ようやく『廻国奇観』と題する本の出版にこぎつけた。
この本について彼は前文の中で、
「想像で書いた事は一つもない。
ただ新事実や今まで不明だった事のみを書いた」
と宣言している。
この本の大部分はペルシアについて書かれており、
日本の記述は一部のみであった。
古美術崎陽
長崎の歴史
その頃ちょうどバンダール・アッバースに
オランダの艦隊が入港していた。
彼はその機会を捉え、
使節団と別れて船医としてインドに渡る決意をする。
こうして1年ほどオランダ東インド会社の船医として勤務。
その後東インド会社の基地がある
オランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、
そこで医院を開業しようとしたがうまくいかず、
行き詰まりを感じていた彼に巡ってきたのが、
当時鎖国により情報が乏しかった日本への船だった。
こうして彼はシャム(タイ)を経由して日本に渡る。
1690年(元禄3)オランダ商館付の医師として、
約2年間出島に滞在した。
1691年と1692年に連続して、江戸参府を経験し
徳川綱吉にも謁見した。
滞日中、オランダ語通訳今村源右衛門の協力を得て
精力的に資料を収集した。
古美術崎陽
長崎の歴史
オランダの艦隊が入港していた。
彼はその機会を捉え、
使節団と別れて船医としてインドに渡る決意をする。
こうして1年ほどオランダ東インド会社の船医として勤務。
その後東インド会社の基地がある
オランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、
そこで医院を開業しようとしたがうまくいかず、
行き詰まりを感じていた彼に巡ってきたのが、
当時鎖国により情報が乏しかった日本への船だった。
こうして彼はシャム(タイ)を経由して日本に渡る。
1690年(元禄3)オランダ商館付の医師として、
約2年間出島に滞在した。
1691年と1692年に連続して、江戸参府を経験し
徳川綱吉にも謁見した。
滞日中、オランダ語通訳今村源右衛門の協力を得て
精力的に資料を収集した。
古美術崎陽
長崎の歴史
故郷やハーメルンのラテン語学校で学んだ後、
さらにリューネブルク、リューベック、
ダンツィヒで哲学、歴史、
さまざまな古代や当代の言語を学ぶ。
ダンツィヒで政治思想に関する最初の論文を執筆した。
さらにトルン、クラクフ、ケーニヒスベルクで勉強を続けた。
1681年にはスウェーデンのウプサラのアカデミーに移る。
そこでドイツ人博物学者
ザムエル・フォン・プーフェンドルフの知己となり、
彼の推薦でスウェーデン国王カール11世が
ロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国)と
サファヴィー朝ペルシア帝国に派遣する使節団に
医師兼秘書として随行することになった。
彼の地球を半周する大旅行はここに始まる。
古美術崎陽 長崎の歴史
さらにリューネブルク、リューベック、
ダンツィヒで哲学、歴史、
さまざまな古代や当代の言語を学ぶ。
ダンツィヒで政治思想に関する最初の論文を執筆した。
さらにトルン、クラクフ、ケーニヒスベルクで勉強を続けた。
1681年にはスウェーデンのウプサラのアカデミーに移る。
そこでドイツ人博物学者
ザムエル・フォン・プーフェンドルフの知己となり、
彼の推薦でスウェーデン国王カール11世が
ロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国)と
サファヴィー朝ペルシア帝国に派遣する使節団に
医師兼秘書として随行することになった。
彼の地球を半周する大旅行はここに始まる。
古美術崎陽 長崎の歴史
補足2
~芝蘭堂~3
寛政6年(1794)オランダ商館長の江戸出府で
オランダ人と初めて対談した玄沢は、
これを機にこの年の閏11月11日が
西暦で1795年元日に当たることから、
芝蘭堂(この時期は京橋水谷町)に多くの蘭学者らを招き、
新元会(元日の祝宴)を催した。
世にオランダ正月と名高いこの宴はその後も毎年続けられ、
玄沢の子・玄幹の死まで44年間行われた。
芝蘭堂は文政10年(1827)の玄沢の死後も、
長男玄幹(磐里)が継ぎ、
さらに孫の玄東(磐泉)にまで引き継がれ、
江戸における蘭学学習の一大中心地としてあり続けた。
なお、洒落っ気も持ち合わせていた玄沢は
「しらんどう」の名をもじって「無識堂半酔先生」と号し、
「医者商」なる戯作も書いている。
古美術 崎陽
長崎の歴史
~芝蘭堂~3
寛政6年(1794)オランダ商館長の江戸出府で
オランダ人と初めて対談した玄沢は、
これを機にこの年の閏11月11日が
西暦で1795年元日に当たることから、
芝蘭堂(この時期は京橋水谷町)に多くの蘭学者らを招き、
新元会(元日の祝宴)を催した。
世にオランダ正月と名高いこの宴はその後も毎年続けられ、
玄沢の子・玄幹の死まで44年間行われた。
芝蘭堂は文政10年(1827)の玄沢の死後も、
長男玄幹(磐里)が継ぎ、
さらに孫の玄東(磐泉)にまで引き継がれ、
江戸における蘭学学習の一大中心地としてあり続けた。
なお、洒落っ気も持ち合わせていた玄沢は
「しらんどう」の名をもじって「無識堂半酔先生」と号し、
「医者商」なる戯作も書いている。
古美術 崎陽
長崎の歴史
補足2
~芝蘭堂~2
その後一時帰郷して家族を呼び寄せ、
天明8年(1788)三十間堀に移転。
この年、玄沢は蘭学の入門書『蘭学階梯』を著したことで、
斯界で大いに名を高めており、
この前後に私邸を「芝蘭堂」と称して開塾したと思われる。
塾名の「芝蘭」とは本来、霊芝と蘭のことを指し、
香りの良い草の総称として用いられる慣用句。
さらに転じて『孔子家語』の
「與善人居、如入芝蘭之室
(善人とともにいると
香草の香り漂う部屋にいるように感化される)」
「芝蘭生於深林、不以無人而不芳
(芝蘭は人のいない深林に生えていても
常によい香りを放っている)」
あるいは『晋書』の「芝蘭玉樹生庭階
(香りの良い草や美しい木は階段の近く
=優れた先生の側に生える)」
など古典漢籍に見られるように、
優れた人物や君子にたとえられる語である。
一説には元々杉田玄白の塾名であったものを譲り受けたともいう。
入塾した弟子は100名以上いたと思われる。
また芝蘭堂は玄沢の私邸でもあったため移転も多く、
たびたび転居している。
古美術 崎陽
長崎の歴史
~芝蘭堂~2
その後一時帰郷して家族を呼び寄せ、
天明8年(1788)三十間堀に移転。
この年、玄沢は蘭学の入門書『蘭学階梯』を著したことで、
斯界で大いに名を高めており、
この前後に私邸を「芝蘭堂」と称して開塾したと思われる。
塾名の「芝蘭」とは本来、霊芝と蘭のことを指し、
香りの良い草の総称として用いられる慣用句。
さらに転じて『孔子家語』の
「與善人居、如入芝蘭之室
(善人とともにいると
香草の香り漂う部屋にいるように感化される)」
「芝蘭生於深林、不以無人而不芳
(芝蘭は人のいない深林に生えていても
常によい香りを放っている)」
あるいは『晋書』の「芝蘭玉樹生庭階
(香りの良い草や美しい木は階段の近く
=優れた先生の側に生える)」
など古典漢籍に見られるように、
優れた人物や君子にたとえられる語である。
一説には元々杉田玄白の塾名であったものを譲り受けたともいう。
入塾した弟子は100名以上いたと思われる。
また芝蘭堂は玄沢の私邸でもあったため移転も多く、
たびたび転居している。
古美術 崎陽
長崎の歴史
補足1
~吉雄耕牛~3
寛政2年(1790)樟脳の輸出に関わる誤訳事件に連座し、
蘭語通詞目付の役職を召し上げられ、
5年間の蟄居処分を申し渡されたが、
復帰後は同8年(1796)蛮学指南役を命じられた。
寛政12年(1800)に平戸町の自邸で病没。
享年77。法名は閑田耕牛。
訳書には『和蘭(紅毛)流膏薬方』、
『正骨要訣』、『布斂吉黴瘡篇』、『因液発備』
(耕牛の口述を没後に刊行。
のちに江馬蘭斎が『五液診方』として別に訳出)など。
通訳・医術の分野でともに優れた耕牛であった。
子供で永久が医術を、
通詞は権之助(六二郎)がそれぞれ受け継いだ。
権之助の門人に高野長英らがいる。
古美術 崎陽
長崎の歴史
~吉雄耕牛~3
寛政2年(1790)樟脳の輸出に関わる誤訳事件に連座し、
蘭語通詞目付の役職を召し上げられ、
5年間の蟄居処分を申し渡されたが、
復帰後は同8年(1796)蛮学指南役を命じられた。
寛政12年(1800)に平戸町の自邸で病没。
享年77。法名は閑田耕牛。
訳書には『和蘭(紅毛)流膏薬方』、
『正骨要訣』、『布斂吉黴瘡篇』、『因液発備』
(耕牛の口述を没後に刊行。
のちに江馬蘭斎が『五液診方』として別に訳出)など。
通訳・医術の分野でともに優れた耕牛であった。
子供で永久が医術を、
通詞は権之助(六二郎)がそれぞれ受け継いだ。
権之助の門人に高野長英らがいる。
古美術 崎陽
長崎の歴史