あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風 芭蕉
残暑に感じる秋風の句である。しかしだ、芭蕉のころの「あかあかと」、8月になって40℃に達するところのある現代日本の「あかあかと」はもう別物である。芭蕉の「あかあか」はかわいらしい。気温にして28度ほどではないのか。
秋立つや川瀬にまじる風の音 蛇笏
の立秋の風情は今の日本ではあり得ない景色となってしまった。いまでも川で風の音を聞くがこれに「立秋」をつける俳人がいるだろうか。
ぼくが座長をする句会では8月の兼題に夏を出してもいいが秋も出せとみんなに言っている。8月に夏の季語ばかり出す奴を見るとバカ野郎、まるで俳句がわかっていない、と歯ぎしりする。暑いけれど秋を書いて気持ちをリフレッシュしたいのである。けれどその人のほうが自然に忠実である。
自然、自然と言うけれど8月になると俳人はいかに反自然であるかと毎年思う。真夏に汗をかきながら秋の爽涼感を書こうとしている。
俳句で言う自然は実際の自然ではなく頭の中の、観念としての自然なのである。芭蕉や蛇笏が書いた秋のイメージが観念として頭の中にある。プラトンの唱えた「イデア」に通底するのではないか。イデアの影を現実としてとらえているのが俳人という人種であろう。
地球が温暖化し日本がここまで熱帯化してしまうと観念の秋が自然の猛暑の秋に打倒される日がいずれ来る。もう来ている。さて俳句はどうなるのか。日本の四季がほぼ四分の一ずつきれいに分かれていた古き良き時代は望むべくもない。
そんなことを考えながら「汗」と「爽やか」の句をひねっている。
完走者どうし抱き合ふ玉の汗
爽やか海原を行く一機影
撮影地:谷保城山