曽野綾子『貧困の僻地』に「指さす少年」という興味深い一篇がある。そのさわりは以下である。
夫は昔、当時はまだ、充分に田舎だった小学校にいた。妹をおぶって来る子、飼い犬を教室の中まで連れて来る子、和服の袖で洟水を拭うので袖口がこべこべに固まっている子、弁当を持たずに来る子、悪さをすると竹藪を逃げ道にする子(おっかけて来る大人には不利)など、いろいろな子がいた。
その中で一人いつもいじめられる子がいた。するとその子は、教室に入ると、ずっと無言のまま一人の子供の方をはっきりと指でさし続けたのである。先生が止めろと言っても手を下さない。一言も言葉で訴えるのではない。しかし一日中ずっと自分をいじめた子を指し続けたのだという。これは非暴力的でいながら、不気味な復讐法だ。暴力にも言語にも訴えていないが、万座の中で、犯人を一人に特定して訴えるのだから効果は大きい。
その中で一人いつもいじめられる子がいた。するとその子は、教室に入ると、ずっと無言のまま一人の子供の方をはっきりと指でさし続けたのである。先生が止めろと言っても手を下さない。一言も言葉で訴えるのではない。しかし一日中ずっと自分をいじめた子を指し続けたのだという。これは非暴力的でいながら、不気味な復讐法だ。暴力にも言語にも訴えていないが、万座の中で、犯人を一人に特定して訴えるのだから効果は大きい。
少年といじめっ子が以後どうなったか興味深いのだが、きのう、歩道を自転車で走行する小生に道路の反対側の歩道から怒鳴る人がいた。
小生のほかにあたりに人がいないので怒鳴る対象は小生であることがわかった。はて、なぜ関係ない人が怒鳴るのか……と思っているうちに、一人思い当った。そうとう前、こちらの歩道にいた彼の横を自転車で通過したとき同じ声で同じように意味不明の罵声を背中に浴びたことを。
自転車のどこかが彼に当たったわけではない。
うしろから自転車が来ると怖いだろうから、数メートルほど近づくと「自転車とおりまーす」と言い始めて数年になる。この挨拶でおおかたの人は10㎝ほどよけてくれて助かっている。スピードはせいぜい競歩の選手くらいで(時速12キロ)、マラソン選手ほどは(時速20キロ)は出さない。すぐ止ることのできる速度である。
今まで声をかけて一人だけ身体を自転車にぶつけて来た人がいて怖かった。これは歩道を自転車が通ることの抗議と受け取った。けれど今や警官も歩道を自転車で通っている。
その剛の人とはその後遭遇していないが、怒鳴る人とは遭遇した。
けれど道路の反対側で、袖降り合うも多生の縁でもないという距離からまた罵倒する心理がよくわからない。意味のあることを言ってくれるのならいいのだが単に罵倒である。
人間というのは面倒である。2歳4ヵ月の孫はときに奇声を発して自己表現する。なにか叫びたい衝動があるのだなあとは思う。成人してもその衝動が消えないのは理解できる。ならばせめて言葉にできないのか。人間というのは面倒で怖い。
人に自転車を当てる、自動車に当てられる、物にぶつかるといったことの他に人間の思惑も考慮しながら自転車を漕がねばならない。
撮影地:利根川右岸