先日、当ブログで奥坂まやの第四句集『うつろふ』のいくつかの句を山野月読と合評した。
問題は次の句で起きた。山野が●、小生が○。
本ひらくやうに冬青空仰ぐ
○基本的なことで恐縮ですが、「冬青空」を「仰ぐ」のではなく、「冬青」が「空仰ぐ」のですよね?
●いやあ、「冬青空」を「私が仰ぐ」のでしょう。
○判断がつかないのですが、「冬青」だとしたら別称「そよご」から連想される風や揺れる葉の音に「本ひらく」が符合するのかなと思ったものですから。
●そこまで面倒な仕掛けはしない作者です。
以上のようなやり取りに対して、しお爺こと塩山五百石がコメントを寄せてくれた。
「わたるさんの、勘違い、勇み足でしょう。月読さんのおっしゃるように、冬青空ではなく「冬青=そよご=冬でも葉っぱが青い常緑樹。冬、赤い実をつける」を晩秋の季語として斡旋した句だと思います。つまり、180度に開いた本のような形の冬青=とうせい、そよごが空を仰いでいる……、ではないでしょうか。」と。
二人が「冬青(そよご)」説をとってもぼくは「冬青空」と疑わない。その背景にまやさんの「青空」の句を二人よりたくさん読んでいるからだと思い至った。()内はその句の発表した句集名。
青空の凍ての切尖ゆるびなし(列柱)
縄跳に春空たわみやすきかな(列柱)
蟬声の降る青空に瑕瑾なし(列柱)
汐まねき青空の音聴いてをり(縄文)
曼珠沙華青空われに殺到す(縄文)
大年や海原は空開けて待つ(縄文)
あをあをと春空あふれやまぬなり(妣の国)
みんなみは歌湧くところ燕(妣の国)
真青な夏空が首絞めにくる(妣の国)
ほかにも季語に空を使った句があるが特に青空に関する句だけ挙げた。
「みんなみ」は空と書いていないが燕で空であることは確か。「青空われに殺到す」の動詞に驚き自分も「○○われに殺到す」という模倣を企て失敗したことがなつかしい。「春空あふれやまぬなり」の感覚も自分にないものであるし、「夏空が首絞めにくる」などということは考えたこともなかった。まやさんは「青空」派でありそれを四方八方から攻めていろいろな表情を描いている。まやさんというと「青空」であると刷り込まれている感じで、「冬青が空を仰ぐ」という分断は思わなかったのである。
句境の進んだ作者は青空を「青天」と書いたり「碧落」と気取ってみたりしがちだがずうっと「青空」「あをぞら」。平易を好んでいる。
まやさんは意表をつく比喩を使うが複雑な文体を好まない。
裸木として青空に拮抗す(妣の国)
この句は、木と空の単純明快な構文である。したがって小生が「冬青空」と素直に読み、「冬青/空」などとはつゆも思わなかったゆえんである。
二人が「冬青/空」を主張してくれたお陰で、まやさんの全句集を読み直すことができてよかった。二人の読みは尊重し、間違いだとは言わないが。
撮影地:駿河湾を望む大瀬海水浴場