天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

一橋祭の山本昌講演会

2018-11-24 06:00:01 | 野球

残念ながら撮影禁止であった


きのう一橋大学の「一橋祭」で、元中日ドラゴンズのエース投手であった山本昌さんの講演会が催された。
題して「継続する心」。
1984年に日本大学藤沢高校からドラフト5位で入団するも3年目まで一軍で1勝もできなかった。4年目のキャンプで1回に滅多打ちされて降板したとき星野監督から「死ぬまで走ってこい」と言われて日没まで3時間走った。
夕方マネージャーから監督が呼んでいると言われたとき殴られるだろうと思い、自分で顔を叩いてそれに備えたというところで聴衆の笑いが起こった。
しかし星野監督は優しく「野球を続けたいか」と言うので頷くと、アメリカへ行きを促された。
メジャーの4軍で勉強して来いということであった。
転機をいかに生かすかということが山本さんの話の眼目であり、アメリカで出会ったコーチから「ストライクを投げよ」といった馬鹿馬鹿しいほどの基礎を叩きこまれる。新球を覚えろという指示もあり、たまたま一緒になった内野手がすごい変化球を投げたのを見て投げ方を習ったという。その内野手はどの投手よりも教え方が上手だった。
これが大きな転機となった。その夏の8月、星野監督から帰れと言われ、嫌だったが帰って一軍登板して勝利、5勝0敗で優勝に貢献する。

「転機を生かす」といことのほかに「緊張感をどうするか」という話はリアリティがあった。
登板する日ははたの人がわかるほど緊張が顔に出たという。「楽に生きましょうよ」と言われてそうしたら滅多打ちされた。やはり緊張感はあったほうがいいのではないか、あるていどの緊張は必要でそれがあるから練習で128キロしか出ないストレートが140キロまで出るということを悟った。緊張と上手に付き合うことであり、そのために準備をしっかりすることである。

講演のあと質疑応答の時間があった。
「尊敬する人は誰です」などという質問は無味乾燥であるが、「速い球を投げるにはどうしたらいいですか」はよかった。投手にはそれに関したことを訊くのがよく、山本さんは壇上で腕の振りをして見せてくれた。すなわち、親指を下にして腕を振り上げることで肩甲骨が開く、それが大事だという具体的な内容にはっとした。
ぼくは7回手を挙げたが指名されず残念であった。
ぼくが指されたたら「巨人ファンのぼくは山本さんが嫌いでした。なんであんなに遅い球を打てないのかいつもイライラしていました」という挨拶をして、対戦したくない打者を2人挙げるとしたら誰ですか、1人は打たれたから嫌だった打者、もう1人はそう打たれた記憶がないのに嫌だった打者、そしてその理由は?
というものである。
質問者ももっとエンターテイナーになって場を盛り上げるべきだと思った。



講演会場の兼松講堂
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鷹12月号小川軽舟を読む

2018-11-22 16:19:42 | 俳句


唐黍食ふ八重歯こぼれんばかりなり
唐黍を食うと必ず食いこぼれる。口のまわりに粒粒がついている。八重歯が目立つ。これも「こぼれんばかり」としたところに言葉の妙味がある。


鉄道最高地点に銀河仰ぎけり
JRの路線の中で標高の一番高いところは、野辺山駅と清里駅の間の、旧国道と交差する踏切付近で1375mである。最寄りの野辺山駅は標高1346m。
このへんは四季を通じて爽快である。きわめてシンプルな句であり句意が明瞭。


モーテルに夜風と浮塵子入り来たる
今月の主宰作品は作りがどれも簡素でよく見せようとする思惑を感じない。この句もシンプル。水田近くのドライブがてらちょっと立ち寄った場面を切り取っている。


建築見て建築学ぶ秋高し
東京都庁舎をすぐ思ったがトランプタワーでもどこでもいい。高層建築物を想像するのは季語の威力のためか。


ニュータウンの小さき葬式月静か
これもか書き方が簡素で書いてある以上のふくみがあるわけではない。文字の通りであり付け足すことはない。


瞠る人耳澄ます人小鳥来る
瞠る対象は小鳥であるし耳澄ます対象も小鳥である。すなわち小鳥の一物俳句。視覚と聴覚の両面から迫るのは作者の自家薬籠中の技である。


角伐や早鐘のごと勢子迫る
この句を読んではじめて作者の意気込みを感じる。すなわち「早鐘のごと」なる比喩である。ここには一句をおもしろくしようとする作者の野心が込められている。早鐘は心臓の鼓動にも通じ勢子たちの勢いをよく伝えている。
作者はまだ60歳にいたっていないのだからこのくらい気負ってもらってもいいように思う。


栗ゆでて松風いよよみどりなり
台所の窓越しに松があり風が吹いている。手元で栗をゆでている。茶褐色が鮮やか。巧まない色の取合せは俗気が少なく枯淡の味わい。


菊を吹く風鏡台につきあたる
これも前の句の似た風合いの作りで、庭に菊を作っていて開いた室内からそれを見ている。菊を経てきた風が鏡台へ来るということである。
何度もいうが今月の主宰の句は総じて脂を抜いている。もともと脂ぎった人ではないがさらに素朴になったように思う。夏を経て主宰の中で何かが変わったように思う。それは何か……注視していきたい。


かりがねや工場減りし尼崎
湘子が提唱した型・その一にぴったりあてはめた句である。小生は坂東にいて関西の事情はほとんど知らないから、ああそうなんだと思う。素朴、簡素はいいのであるが「工場減りし尼崎」に「かりがね」をつけるのはかなり類型的ではなかろうか。鷹へ入って5年くらいの人がこの句を書くのであれば了承するが、鷹主宰となればここの12句へ入れるにしては平凡ではないか。
やはり主宰の心中に何かが起きている感じがしてならぬ。


仏壇の青き葡萄に燭ともす
青葡萄とややオレンジみを帯びた蝋燭の光、素朴である。


深秋や見交して笑むジャズ奏者
これも素朴で悪くはないが鷹集3句級の句のような気がしてならない。小生がひこばえ句会で見たら「きちんとできていていいですね」と評するが、もうすこし揺り返すの後味のようなものを求める。
うーん、主宰は夏を経て変わったように思う。基礎代謝量が減っていると見るのは失礼であろうか。注視したい。



写真:大国魂神社境内
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縦の明治ラグビー復活

2018-11-21 05:46:55 | スポーツ


18日(土)なにげなく関東大学ラグビー対抗戦、帝京VS明治を見た。ラグビーはオールブラックスが来日し全日本と対戦したりして世界最高峰のものを見てしまうと、大学生の試合はまるでちゃちに感じていた。
おまけに帝京は大学ラグビーの王者で9連覇の常勝軍団、明治は歯が立たないだろうと思っていた。

それが違った。明治がスクラムを押し込んだのである。
帝京がスクラムを押されて崩して反則を取られるなどというシーンを何年も見た記憶がない。これをきっかけに明治が勢いづいて23-15で勝ってしまったが、前半明治がリードしても後半帝京が盛り返し逆転されるだろうとずっと思って見ていた。
けれど明治のスタミナは切れず攻撃、防御とも上回った。
このとき9年前、帝京が挑んだ早稲田は負けないだろうと見ていたことを思い出した。当時大学ラグビーは早稲田と明治が覇を争っていた。
「縦の明治」「横の早稲田」といわれスクラムで押す明治とバックスを走らせて華のある早稲田が双璧であった。
このときの早稲田と闘った帝京を見ていて動きがいいと感じた。帝京の赤のほうが早稲田の縞よりはやくボールへ集まっていた。それに赤が大きく見えた。結果、赤の帝京が早稲田を食った。このときはまだフロックという気もしたが以後、帝京が大学ラグビーの王者に君臨した記念すべき勝利であった。
帝京は「縦の明治」「横の早稲田」を止揚して、縦横ともすごいラグビーを作り上げた。

その帝京をスクラムで明治が破った。明治はトップリーグのリコー相手にスクラムを強化したというが、その破壊力が光った。
モールを押し込んでトライを取るなどえらく興奮した。大学ラグビーを見てかくも興奮したことは最近なかった。
ラグビーはスクラムを押すことがいかに大事かを痛感した試合であった。

関東大学ラグビー対抗戦は、帝京、明治、早稲田、慶応が拮抗してきてがぜんおもしろくなった。なにごとも群雄割拠のほうがうきうきする。


写真:明大スポーツ
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妻のための正しい干柿

2018-11-19 16:24:43 | 身辺雑記

60年前、祖母が作って食べていたものであるが歯が丈夫であったなあ

10月から干してきた柿を一人食っている。皮つきで硬いやつだが噛みはじめると滋味があってやみつきになる。
人から瀟洒な菓子をいただくが柿のほうが栄養は勝るのではないか。栄養は糖分だけでなく太陽の栄養、ビタミンDが加わっているしさまざなミネラルがあるだろう。皮は繊維十分である。
しかし去年よろこんで食べた妻は歯が悪く口中の大規模工事をしている。

「皮のない干柿にして」というので下河原緑道の柿採りをした。ここの木は高いので3メートまで伸びる剪定鋏を3000円で購入。130個ほど採って剝いて80個を吊るした。へたのところの枝が取れてしまって紐を結べない柿は割って干した。これが30個ほど。残りは甘柿でナマで食っている。

干柿をつくりながらナマでも食う。そのへんが柿のおもしろさである。
ひとつの木の100個がすべて甘柿というのと全部が渋柿というのはわかりやすい。また100個のうち甘柿が10個、渋柿が90個という木はわかりやすい。多摩川河川敷の木は全部が渋柿であった。
ところが下河原緑道の柿は渋と甘がまだらである。
その木は純然たる甘柿が10個、甘柿の中に渋が混入しているのが50個、残り40個が純然たる渋柿という比率なのだ。純然たる渋柿といっても甘味が混じっているし、甘柿に渋が混入している場合の両者の入り組み方は実に多様で眺めていて飽きない。小さな地球を割って眺めているような錯覚に陥る。
甘柿の渋の部分を削り取って食べるナマは格別にうまい。


黒い点々が集まって甘い部分と黄色主体の渋の部分が入り組んだ甘・渋混合柿


柿に意思があるのならなぜこんなに複雑な模様なのか問うてみたいほどである。

甘と渋の混在はまるで一人の人間を見ているようでもある。
善と悪とが混在していて時と場合によりどちからが色濃く出たりして人間はおもしろい。それが小説のテーマになり篠田節子の『鏡の背面』のような作品になる。
そんなことを考えながら柿を吊るした。
クリスマスに食べられるようになれば金のかからぬ妻へのプレゼントになる。太陽と気温まかせである。


正しい干柿
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篠田節子『鏡の背面』

2018-11-18 08:28:59 | 


読書メーターで楓さんは次のようにコメントしている。
色々な問題を抱えシェルターに暮らす女性達から聖母と慕われた小野尚子が火災事故で女性と赤ん坊を救い命を落とした。嘆き哀しむ入居者達。しかし遺体は小野尚子ではなく別人それも連続殺人の容疑者半田明美だった。小野先生を取材しその人柄に魅了されたライター山崎知佳はシェルター代表の中富優紀と共に本当の小野尚子探しを始める。心酔し信じていたものを否定されると目の前にあった真実に歪みが生じ揺れる。人の心の不思議が実に良く書かれている。善と悪合わせ鏡の様な人の心を犯罪者と聖母と相反する2つ姿で描き出す心理学的にも面白い本。

要約すれば、稀代の毒婦が稀代の聖母に成り代わった話である。
半田明美と小野尚子の間には、太陰大極図のようなしんと静まり返った不思議な調和が見える
という指摘は「鏡の背面」のイメージを端的に伝えている。



ライター山崎知佳とシェルター代表の中富優紀がムードに流され超常現象にのめり込みそうなところを引退したジャーナリストの長島が現実に引き戻す役割を果たす。
長島は、山崎や中富が半田明美が小野尚子に成り代わったことを「魂の乗り移り」と美化して納得したい傾向を制動する。
「つまり、策士策に溺れて、自分で自分を洗脳しちまった、って言うわけか」
「半田明美のやったことは、あちこちの国の工作員がやってることなんだ。所作から頭の中身まで、設定した人物になりきる。やりすぎると自分の人格までもっていかれる。挙げ句に二重スパイをやって殺されたのがいただろ」

2パーセントほどまだ半田明美はあったかもしれないが、歳をとって気力も欲望も失せる。そばには盲目の榊原がいた。直観力の優れた榊原は小野尚子を名乗る女の正体を見抜いていて、本質が出ないようにお目付け役を果たして聖母と一緒に死んだ。

他人の命を救うために自分が火の中で犠牲になる。それが何人の男から金を巻き上げ面倒が起れば事故死に見せかけて抹殺した稀代の悪女の最期である。
しかしこういうストーリーに納得できる人はまずいないであろう。「性善説」「性悪質」といった古典的な二元論を思い出した。作者は正反対の人格を書き切る中で読者に性善説をうっすら匂わせ、人間を希望的に見たかったのではないか。

いろいろな人の感想文や小生の書いた記事を読んでも多くの人は本書のテーマに疑問を抱くに違いない。性悪質ががんとして存在しそこからまぬがれないのがふつうの人間である。
性善説を納得いくように展開して着地するまでに作者は534ページを必要としたと思われる。どの本もそうであるが特に本書は自分で読んでみなければ納得できないであろう点で篠田節子の力量を感じるのである。
読みはじめたら一気に読める534ページである。
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