岸本尚毅氏が今年1月27日の練馬区立勤労福祉会館において、高浜虚子について講演した。題して【虚子俳句における「もの」と「こと」】である。
この話が『花鳥来る』第91号に載っている。
岸本氏の講演の中で特に注意すべき点を取り上げて虚子俳句の本質を確認したい。
虚子の句は居心地がいい
たとえば秋桜子の〈滝落ちて群青世界とどろけり〉はかなり長い散文で言うべき内容を漢字四文字に凝縮した。つまり努力してきちんと内容を伝達しようとしているが、
虚子の句はいい意味でスカスカ、何かを伝えようという努力が感じられない。
虚子の句は空気のようなものを醸成する。それが居心地のよさに通じる。
石ころも露けきものの一つかな 虚子
わだつみに物の命のくらげかな
去年今年貫く棒のごときもの
岸本氏は「現象世界の背後から、不気味な物自体がぬっと顔を出し…」という澁澤龍彦氏の鑑賞や、『日本語の哲学へ』の著者、長谷川三千子氏の言葉を引いている。
長谷川先生の解説がおくゆかしい。
「もの」という言葉の〈意味の水深〉は、おそろしく深い。その表面近くにおいては、「もの」は単なる「存在者」にすぎず、「単なる物体」をあらわすにすぎない。しかし、その底へともぐってゆくと、「もの」はそのまま、目も鼻もない混沌の姿―いまだ有と無が分離していない領域の消息―へとつながっている。そしてわれわれ日本人は、「もの」という一語によって、その〈意味の領域〉のもっとも深いところから、もっとも表面にいたるまでを、自由に往き来しているのである。
〈石ころも露けきものの一つかな〉の「もの」を禁じ手にして、たとえば〈石ころも露けき中の一つかな〉とすると、えらく窮屈になってしまう。
「こと」は透明なレジ袋、「もの」は風呂敷包み
バスの棚の夏帽のよく落ること 虚子
下五は「落つるなり」でも俳句にはなるが、「こと」だとパッケージにして取り出す感じになる。
手毬歌かなしきことをうつくしく 虚子
これを「かなしくもまたうつくしく」とすると、ベターっと色がまざって汚れた感じになる。「かなしきこと」という一つのかたまりともう一つのかたまりの構造が一句の中にできる。
「こと」ということでパッケージになる。
これに対して「もの」は中身の見えていない風呂敷包みであると。
岸本氏の講演のほんの一部だけをとりあげた。最近読んだ俳句に関する評論の中では出色の内容であった。
この話が『花鳥来る』第91号に載っている。
岸本氏の講演の中で特に注意すべき点を取り上げて虚子俳句の本質を確認したい。
虚子の句は居心地がいい
たとえば秋桜子の〈滝落ちて群青世界とどろけり〉はかなり長い散文で言うべき内容を漢字四文字に凝縮した。つまり努力してきちんと内容を伝達しようとしているが、
虚子の句はいい意味でスカスカ、何かを伝えようという努力が感じられない。
虚子の句は空気のようなものを醸成する。それが居心地のよさに通じる。
石ころも露けきものの一つかな 虚子
わだつみに物の命のくらげかな
去年今年貫く棒のごときもの
岸本氏は「現象世界の背後から、不気味な物自体がぬっと顔を出し…」という澁澤龍彦氏の鑑賞や、『日本語の哲学へ』の著者、長谷川三千子氏の言葉を引いている。
長谷川先生の解説がおくゆかしい。
「もの」という言葉の〈意味の水深〉は、おそろしく深い。その表面近くにおいては、「もの」は単なる「存在者」にすぎず、「単なる物体」をあらわすにすぎない。しかし、その底へともぐってゆくと、「もの」はそのまま、目も鼻もない混沌の姿―いまだ有と無が分離していない領域の消息―へとつながっている。そしてわれわれ日本人は、「もの」という一語によって、その〈意味の領域〉のもっとも深いところから、もっとも表面にいたるまでを、自由に往き来しているのである。
〈石ころも露けきものの一つかな〉の「もの」を禁じ手にして、たとえば〈石ころも露けき中の一つかな〉とすると、えらく窮屈になってしまう。
「こと」は透明なレジ袋、「もの」は風呂敷包み
バスの棚の夏帽のよく落ること 虚子
下五は「落つるなり」でも俳句にはなるが、「こと」だとパッケージにして取り出す感じになる。
手毬歌かなしきことをうつくしく 虚子
これを「かなしくもまたうつくしく」とすると、ベターっと色がまざって汚れた感じになる。「かなしきこと」という一つのかたまりともう一つのかたまりの構造が一句の中にできる。
「こと」ということでパッケージになる。
これに対して「もの」は中身の見えていない風呂敷包みであると。
岸本氏の講演のほんの一部だけをとりあげた。最近読んだ俳句に関する評論の中では出色の内容であった。