天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

虚子の「もの」と「こと」

2013-10-02 13:17:24 | 俳句・文芸
岸本尚毅氏が今年1月27日の練馬区立勤労福祉会館において、高浜虚子について講演した。題して【虚子俳句における「もの」と「こと」】である。
この話が『花鳥来る』第91号に載っている。
岸本氏の講演の中で特に注意すべき点を取り上げて虚子俳句の本質を確認したい。

虚子の句は居心地がいい
たとえば秋桜子の〈滝落ちて群青世界とどろけり〉はかなり長い散文で言うべき内容を漢字四文字に凝縮した。つまり努力してきちんと内容を伝達しようとしているが、
虚子の句はいい意味でスカスカ、何かを伝えようという努力が感じられない。
虚子の句は空気のようなものを醸成する。それが居心地のよさに通じる。

石ころも露けきものの一つかな 虚子
わだつみに物の命のくらげかな
去年今年貫く棒のごときもの


岸本氏は「現象世界の背後から、不気味な物自体がぬっと顔を出し…」という澁澤龍彦氏の鑑賞や、『日本語の哲学へ』の著者、長谷川三千子氏の言葉を引いている。
長谷川先生の解説がおくゆかしい。
「もの」という言葉の〈意味の水深〉は、おそろしく深い。その表面近くにおいては、「もの」は単なる「存在者」にすぎず、「単なる物体」をあらわすにすぎない。しかし、その底へともぐってゆくと、「もの」はそのまま、目も鼻もない混沌の姿―いまだ有と無が分離していない領域の消息―へとつながっている。そしてわれわれ日本人は、「もの」という一語によって、その〈意味の領域〉のもっとも深いところから、もっとも表面にいたるまでを、自由に往き来しているのである。

〈石ころも露けきものの一つかな〉の「もの」を禁じ手にして、たとえば〈石ころも露けき中の一つかな〉とすると、えらく窮屈になってしまう。

「こと」は透明なレジ袋、「もの」は風呂敷包み
バスの棚の夏帽のよく落ること 虚子
下五は「落つるなり」でも俳句にはなるが、「こと」だとパッケージにして取り出す感じになる。
手毬歌かなしきことをうつくしく 虚子
これを「かなしくもまたうつくしく」とすると、ベターっと色がまざって汚れた感じになる。「かなしきこと」という一つのかたまりともう一つのかたまりの構造が一句の中にできる。
「こと」ということでパッケージになる。
これに対して「もの」は中身の見えていない風呂敷包みであると。

岸本氏の講演のほんの一部だけをとりあげた。最近読んだ俳句に関する評論の中では出色の内容であった。
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男女の深淵by田辺聖子

2013-10-02 01:18:00 | 俳句・文芸
真木よう子を見たくて、映画『そして父になる』を見た
真木は電気屋の3人の子持ちの女房を演じた。現実的な肝っ玉かあさんであり、亭主を尻に敷く妻であった。その勝気ぶりは前作『さよなら渓谷』と同様、痛快であった。
真木同様に勝気で自己を主張してきりっとした女優といえば、柴崎コウ、深田恭子などもすぐ思う.


田辺聖子の短編『ほどらい』に登場する「私」は、いま挙げた女性たちと対極にいるような気がする。
私は34歳の未婚、文具メーカー勤務。機械設計の会社を友人と経営する41歳の内田と2年越しの関係を続けている。内田は結婚してすぐ別れて独身。新製品製作のことで私は「内田エンジニアリング」と交渉することになった。

初対面の内田は私の腕に見入り、
(ほどらいの白うて冷たそうな腕ェでんなあ)といって触った。
それがきっかけで男と女の関係が始まった。
【このへん、田辺さんは男が女に抱く官能性を熟知している】
相性がいいというのか内田と私は〈ほどらいのいい仲〉である。

私は〈ほどらいのエエ仲〉はいい気分だけれどずっとこうやって年を重ねていくことにゆらぎ始める。
落鮎を食いに連れて行かれた料亭で私は結婚を匂わせるが、内田は一緒に暮らすことは考えたこともない、とにべもない。私は不快になる。
男と女は時々会っておいしいものを食って、ええ顔見せているのがほどらいのエエ仲だ、といって譲らない。
ほどらいを捨てて一緒に住むと、女は〈やらずぶったくり〉になる。
女房は女とちゃう、女房族という種族に変質しよるねん。男から金も夢もすべて奪っていく。

私は不満なのだが、この話をしている最中、料亭のとなりにこれから建てると思ってばかりいた建物が実は取り壊していることとわかって内田と大笑いしてしまう。
【このへん、田辺さんの小道具の使い方は絶妙!】

内田はすかさず、
「笑い合える仲が最高」とたたみかける。
私も笑い合える仲、なら、これでいいじゃないか……と思ってしまう。

ほどらいのエエ仲は、男にとって一緒に住む面倒がなくて抱きたいと抱ける都合のいい女に思えてならない。
私は土壇場で我を張らず折れて男の言いなりになる。ここに田辺聖子のほどらいという美意識があるのだが、真木よう子も柴崎コウも深田恭子も今はとてもこの「私」を演じられそうにない。

田辺聖子の書く女は男からみて味わい深い。
勝気を表に出してはばからない女優たちがいつか田辺聖子の女を演じてみようと思うとき、また一皮むけるような気がする。
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