アパートの緑のゴミボックス(なまゴミ用)に本が入っている。
珍しく英語の本。これを捨てた人は向学心があったようだ。すこしうれしい。
『ペーパーバック読解法 ミステリーで英語漬け』という表題にひかれて少し読む。
著者の一人藤田悟さんが、英語を読む力をつけるのには「ミステリーが最高!」と書いている。
小説でいわゆる純文学系は心象風景など多くて筋がわかりしくい。その点ミステリーは具体的な展開で筋が通っている。
また、ミステリーは男は男であり女は女である、鉄は綿より重いことを当然としてストーリーが展開する、つまり古き良き秩序を不動のものとしているから安心して読める。
おっしゃるとおりである。
展開する事態は奇想天外、読者の裏をかく工夫に満ちているから、安心しながらハラハラドキドキできる、そして最後には必ずある種の解決がくる。
また、事件が起こり、何らかの解決をみるという点でミステリーはしっかり理屈を踏まえている。
藤田さんは論文を書く文章技法をミステリーから学んだという。
藤田さんの見解をうかがっていて、小生も英語を読むことで日本語の文章力をつけたことをあらためて思った。
ぼくは純文学系が好きだった。
高校生となるとすぐ、D.H.ローレンス(ペンギンブックス)を読みはじめた。
たしかに純文学は心象が多いがD.H.ローレンスはそうでもなく、森や川の描写が多く筋の流れも音楽のように心地よかった。
心象に踏み込んだ作家のものはさすがに読みとれず放り出した。
英語の小説を読むことでもって大学受験の勉強をしたようなものである。
英語やドイツ語で得た論理性がぼくの日本語を形つくっているのかもしれない。
鷹俳句会へ入って日本語をやってきた人、つまり国文学系の勉強をしてきた人に接して、ああ俺は英語かぶれだと思ったが、どっちがよかったというものでもない。
一緒に出ていた『POST-MORTEN』という小説をためしに1ページ読んでみるが忘れた単語ばかり。やさしい英語の構文だとは思うがもはや英語はだめ。
ぼくにとって英語とD.H.ローレンスは高校生時代のものであった。