天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

加藤楸邨の屈折と格調

2017-11-14 04:29:24 | 俳句


先日ひこばえ句会に、
画面撫で字を繰り出すや胼の手も

という句を出したところ、句歴4年のFさんが「そんな<や>の使い方があるんですか」と真顔で言う。<や>を使っていても内容的に切れていないじゃないかという異論である。
びっくりした。
鷹同人はたいてい藤田湘子の『20週俳句入門』をテキストにして新人教育をしている。ここで重要視する<や>という切字は内容を分つ装置としてのそれである。
しかし<や>には声調を整える、リズムを変えたいなどの使い方がある。
ぼく自身『20週俳句入門』をやりながらホトトギスの黄金時代の名句集を読むうちに内容を切らない<や>の使い方がありそのおもしろさに気づいた。
それを応用して、
猟犬や車飛び出し息荒し

と書いたものだ。<車飛び出し猟犬の息荒し>とはじめは考えたが迫力がないので<や>で声調を整えたのである。

Fさんは熱心に勉強する。それはいい。
しかし教科書で英語をしてテキサスへ旅して当地の人の英語を聞き取れないと「あなた教科書通りにしゃべりませんね」と言うのではないか。あるいは恋人に「キスしてもいいか事前に聞いてちょうだい」というタイプか。
世の中は計算できないこと、通例にあてはまらないこと、胡散臭いものが満ちている。俳句だって一応のルールはあるが、やっていいか悪いか誰かにお伺いを立てるような世界ではない。物事は子燕が口を明けて餌を待つようなものではなく自分で貪欲にゲットしてものになるのだ。

内容を切らずに<や>用いた有名な句に、

隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな  加藤楸邨


がある。意味としては「隠岐はいま」と一緒だがこう書いてしまうと散文で格調がまるでない。
楸邨はほかにも

葱や菜や青し人住むあとどころ
あはれなる寄生木さへや芽をかざす
わが肩や雲より赫と春日の手


などの<や>を書いている。
自分なら<葱も菜も青し>とやってしまうだろうなと思うし、<寄生木さへや>は考えつかない。
Fさんにいろいろな<や>を伝えたいために楸邨を読み直していて、この俳人の屈託と格調がないまぜになっている文体に惹かれてゆく。

死ねば野分生きてゐしかば争へり
天の川怒濤のごとし人の死へ
火事を見る胸裡に別の声あげて
冬木すこやか業火の傷のもりあがり
冬鵙へはがねのごとく病めるなり


「冬鵙へ……病める」という文脈を常人は思いつかないだろう。また「生きてゐしかば」と屈折した文体も考えつかない。楸邨のこういった句を読むと自分も含めて最近の俳人は滑りのいい言葉遣いはするが格調や体臭が乏しいように思えてならない。
戦争に明け暮れた時代が楸邨をして鬱屈させ内面に濃い感情を育ませたのかもしれないが、いま楸邨を読むと羨望を感じる自分がいる。

籾を摺り摺りつつぞいふ夜のさむさ
船の灯を追ひくる虫ぞ波に落つ
泣きつつぞ鉛筆削る吾子夜寒
東風の濤谷なすときぞ隠岐見え来
かぞへきれぬ海月ぞさむく明けきたる
赤き茨の芽のかぎりなき春愁ぞ


藤田湘子は「いまの人は完了の助動詞<ぬ>を使えなくなった」と嘆いた。同様にここで楸邨が多用している<ぞ>もまた使えないだろう。<ぞ>を使えるような時代ではないように思うのだが使ってみたい気もふつふつと起こる。
楸邨の文体は図書館で哲学の書架を仰ぎ見るような感じがする。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 相模湖そぞろ歩き | トップ | 暴力と暴言と濁世なり »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

俳句」カテゴリの最新記事