かんじゃまのつぶやき(海の見えるチベットより)

日本一細長い四国佐田岬半島での慣れない田舎暮らしの日常や風景、
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お墓調査 その13:石材流通ルートの変化

2011-10-19 13:58:22 | 田舎の歴史
地区の墓地では、最近の墓石はほとんどが “御影石”と呼ばれる花崗岩が一般に使われている。
花崗岩にもいろいろ種類があるのだが、最も多いのは灰色のものだ。



アップで見るとこんな感じ。


一方、“黒御影”と呼ばれる黒っぽい色をした閃緑岩も見られる。


個人的にはこちらの方が少し高級感があるように見えるのだが、
感じ方は、人それぞれであろう。

さらには、高級石材“庵治石”ではなかろうかと思われるものも見られる。


近年は輸送手段が格段に発達してきたので、最近の墓石は外国産(主に中国産)のものが多いとも聞く。
しかし、それ以前はおそらく瀬戸内海周辺の地域から花崗岩が運ばれてきたものと思われる。

一方、大正前期より古いもので圧倒的に多いのは砂岩である。


こちらの方が、花崗岩に比べて少し柔らかく加工しやすいだろう。
この砂岩がどこからもたらされたのかは分からないのだが、松山近辺から運ばれてきた可能性がある。

そして、これらの岩石とは質感や色調が異なる次のような岩石が時折見られた。


どうやら流紋岩のようである。
地区の共同墓地を見て行ったところ、この種の岩石が使われた墓石は、
明和~文化年間(西暦1764~1818)のものである。
特に、寛政・享和・文化年間のうち20年足らずの短期間に集中して多い。

一方、安山岩あるいは安山岩質凝灰岩で作られた墓石も少ないながら見られた。


この岩石も、ほぼ流紋岩の時期と重なるのだが、流紋岩のピーク時より少し前の明和・安永・天明年間(1764~1789)に見られる。
これらの岩石は、大分県あるいは山口県から運ばれたものと思われる。
流紋岩や安山岩類が使われた期間は短く、
それ以降の墓石にも相変わらず砂岩が多く使われている。

そして、江戸時代後期から少しずつ花崗岩が登場してくる。
とはいえ、江戸時代後期から明治時代にかけてはまだまだこの半島には花崗岩はあまり持ち込まれていなかったようで、この時期の数は少なく、砂岩が主流である。

花崗岩の墓石が主流となるのは大正に入ってからである。
ところが、それ以前の江戸時代のある時期にわずかながらだが、花崗岩が入ってきたことがあるようである。



この花崗岩の特徴は、カリ長石がピンク色をしていることで、


広島県に広く分布する花崗岩によく似ている。
残念なことに、この種の花崗岩は風化に弱いようで、長い間の風雨にさらされて、
墓石に彫られた碑文がことごとく読みづらくなっている。 
これまで見たところ、この岩石の墓石はすべてやや大型の“駒形”タイプ(頭部が将棋の駒のような形状)である。
地区共同墓地の墓石では、この“駒形”タイプが最も古く、
明和年間(1764~1772)以前に限られることから、おそらくそれらと同時期、つまり江戸時代中期のものであろう。

と思っていたら、かすかに文字が読めそうな墓石があった。 


どうやら、「宝永・・・」のように読める。 
今から300年前の墓石である。
この墓地には他に10基ほど江戸時代の墓石が並んでおり、「○○家之墓」という家族墓もある。
その家族墓は昭和40年に建てられたことが記されており、「九代目○○建之(これをたつ)」とある。
すごい!  


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