父親が倒れたという知らせを受けた日、長谷部真次は、いつものようにスーツケースを転がしながら地下鉄で移動していた。突然現れた亡き兄が姿を現し、兄の背中を追って地下通路を抜けると、そこは昭和39年の東京だった……。 続き
泣かせの浅田次郎に、心地よく乗せられて・・・。
原作は浅田次郎、泣かせの名人である。わかっていても、泣かせられる。とても通俗的なのだが、とにかく、ストーリーの紡ぎ出し方がうまい。
主人公やその家族には必ず、過去の秘密や傷がある。その秘密や傷は、ある程度まで、序盤で種明かしされるのだが、そのことに安心していると、もうひとつ大きなあるいは屈折した物語がその背景に控えていることになる。
そのことについては、読者は、多くは、主人公に寄り添うカタチで、発見していくことになる。決まって、物語の終盤、主人公は自分や自分の家族、あるいは親しい人の、秘められていた物語を見つけ出し、慟哭することになる。
その慟哭に波動があわさって、読者は主人公に憑依するかのように、泣かせられる事になる。
もうひとつ、浅田次郎は、怪異譚の名手である。現実にはありえないこと、科学的にはトンデモとされること、そんな不可思議が、浅田次郎の設定では、ありうることのように思えてくるのだ。
このことに関しては、浅田次郎自身が記述していることだが、僕も2回ほど遊びに訪れた武蔵御嶽神社近くに浅田次郎の親戚が営む豪壮なつくりの宿坊があるのだが、ここで避暑をかねて、浅田次郎は執筆をしていたようだ。夏でもひんやりとし、崇神天皇由来の関東最大の御岳信仰のスポットであるのだが、魑魅魍魎の霊が、ひょいと顔を覗かせそうな妖しげな気配に満ちている。ここで、幼い頃、浅田次郎は、叔母たちに不思議な霊異譚をことあるごとに聞かされていたらしい。
1995年、およそ10年前に発表された「地下鉄(メトロ)に乗って」であるが、吉川英治文学新人賞を受けており、僕も好きな小説である。
もうひとつ、関心を持ったのは、予告編のCMでさんざん聞いた人も多かろうが、小林武史作曲、Salyuの唄で奏でられる主題曲「プラットホーム」の調べに惹きつけられたからだ。もちろん、このコンビは、2001年のあの岩井俊二監督の「リリィ・シュシュのすべて」と同じである。あのLily Chou-Chouは、2004年からはSalyuという名前で登場しているが、あの力強いしかし黄泉の国から響いてくるような歌声がまた・・・。
長谷部真次(堤真一)は43歳、小さな下着メーカーの営業マンだ。地下鉄の通路で、高校で死んだ兄をみかけた気になる。奇しくも、今日は、兄の命日。追いかけて地上に出ると、そこは、昭和39年の東京オリンピックを間近に控えて沸き立つ東京であった。この年、この日、兄は事故で死んだ。とすれば、その事故を防げないか、真次は兄を捜し出し、家に送り届け、絶対家を出ないようにと念を押し、現代に戻ることになる。
一度、過去に戻った真次は、その後も、運命に導かれるように、「地下鉄(メトロ)に乗って」過去を遍歴することになる。
次に辿り着いたのは、昭和21年、戦後闇市のエネルギーと生存本能にあふれた時代。そこで、満州から生還したアムールと名乗る若き日のふてぶてしく時代を生きる父親(大沢たかお)と会う。また、不思議なことに、恋人の軽部みち子(岡本綾)の姿も見かける。
また、別の日、この時代で、米兵との貴重な砂糖の取引で、見事なペテンを演じる父を見る。そして、そのペテンの片棒をかつぐ父の愛人のお時(常盤貴子)の姿も。
次は、昭和20年、出征する若き父である小沼佐吉と銀座線で出会う。佐吉は大切そうに、真次の母から送られた「千人針」を持っている。はじめて地下鉄に乗ったという父親を真次は、万歳三唱で送り出す。
またその次では、佐吉が送られた満州の前線で、ソ連兵士相手に戦い、子供たちを逃がす父親を目撃する。
そして、最後、もう一度兄が死んだ日の昭和39年に真次は降り立つ。
そこでは、過去の世界にたびたび遭遇した恋人みち子と、一緒である。
以前、家に送り届けたにかかわらず、また、父と争った兄は、母とのやり取りの中で、自分が佐吉の子ではないことを知り、放心の中で、車にはねられて命を落とす。
みち子は決意したかのように、坂の階段を真次を伴って歩く。階段の上には、「BAR アムール」が。そこには、身篭ったお時がいる。途中で「子供を死なせてしまった」佐吉が酔いどれて入ってくる・・・。
こうした過去への彷徨は、父に反発し高校生で家を出て母方の姓を名乗り、財閥を築き上げた父にも会わず、危篤の知らせにも面会することを拒絶する真次に必然のように訪れたタイムトリップである。
「自分が生まれる前」の父を知り、その子供に寄せる愛情を感じ、本当は弟に「兄さんは父親そっくりだ」と揶揄されることも、喜びのように感じてくるその「父子」の和解のために用意された、奇跡であった。
そして、もうひとつの秘密が明らかにされる。みち子は、佐吉とお時との間にできた子であった。みち子は、両親の生まれてくる自分に向けての愛情を確認する。
ここからが、本当の浅田次郎の泣かせの極地となる。
雨の中、傘を差し出す母を泣きながら抱きしめるみち子。
みち子の視線の先には真次がいる。真次は、父親の真実に触れて、安堵している。
みち子はいう。「好きな人」と「お母さん」のどちらかをとるとしたら。
お時は、みち子が何を言っているのかわからない。一般論として、「母親というものは子供の選択に任せるのよ」といったニュアンスで返す。
みち子は母を見る。そして真次を見る。たぶんふたりに同じように「忘れない」と言葉を告げる。
そして、「ごめんなさい、お母さん」と呟いて、母を抱えて階段を落下する。
身重の母は、その故に赤ちゃんを喪う。つまり、お腹の中のみち子を。
その小さな生命が燃え尽きると同時に、みち子もまた消失する。
みち子は、真次と異母兄妹である。真次には家庭も子供もいる。父親の不倫のせいで生まれた自分が、また報われぬ愛を紡ぐ。もう、充分、愛された。自分は消える。そのためには、歴史を変える。あの日に戻って。このみち子の悲しい決断が、この作品の最大の泣かせどころとなる。
本当は、前から、みち子はこうなることがわかっていたのだ。いつも、儚げで、切なげで、なにかを真次に言いそびれていた。
なにかを決意して、階段を上る前に、みち子は強く真次を抱擁している。そして、そっと、真次から贈られた指輪をはずして、真次のポケットに忍び込ませている。
もう、自分は、この世界から消える。だから、真次との愛の日々は、なかったことにしてしまうのだ、と。
もしかしたら、これまでの真次の過去への道先案内をしたのは、亡霊となったみち子が用意したことではなかったか・・・。
96年に「月とキャベツ」で長編デヴューし、04年「深呼吸の必要」でサトウキビ畑で働く青年たちの日々を瑞々しく描き評価を高めた篠原哲雄監督だが、歴史をまたぐような叙情的なストーリーを映画化することが、それほど得意ではないように僕には見える。
けれども、自分も20年ほど前父親を突然亡くし、ほんとうの別れをしていなかったのではと語る主演の堤真一や、20年にわたる父親の場面を演じ分け、自分としての役者人生の転機になったと語る大沢たかおら、演技派の役者陣に助けられた。
また、CGに頼らず、営団地下鉄の全面協力があったとしても、当時の資料からいきいきと町並みを再現した美術の金田克美や、「グエムル」「殺人の追憶」などを通じて韓国最高のエディターといわれるキム・ソンミン、そして前述した音楽の小林武史やSalyuによって、充分合格点がつけられる作品に仕上がったといえるのではないか。
あなたは父になる前の父親を知っていますか?
あなたが生まれる前の母親に会いたいですか?
このコピーは、邦画史上、最高に心を揺すぶる名コピーである。
泣かせの浅田次郎に、心地よく乗せられて・・・。
原作は浅田次郎、泣かせの名人である。わかっていても、泣かせられる。とても通俗的なのだが、とにかく、ストーリーの紡ぎ出し方がうまい。
主人公やその家族には必ず、過去の秘密や傷がある。その秘密や傷は、ある程度まで、序盤で種明かしされるのだが、そのことに安心していると、もうひとつ大きなあるいは屈折した物語がその背景に控えていることになる。
そのことについては、読者は、多くは、主人公に寄り添うカタチで、発見していくことになる。決まって、物語の終盤、主人公は自分や自分の家族、あるいは親しい人の、秘められていた物語を見つけ出し、慟哭することになる。
その慟哭に波動があわさって、読者は主人公に憑依するかのように、泣かせられる事になる。
もうひとつ、浅田次郎は、怪異譚の名手である。現実にはありえないこと、科学的にはトンデモとされること、そんな不可思議が、浅田次郎の設定では、ありうることのように思えてくるのだ。
このことに関しては、浅田次郎自身が記述していることだが、僕も2回ほど遊びに訪れた武蔵御嶽神社近くに浅田次郎の親戚が営む豪壮なつくりの宿坊があるのだが、ここで避暑をかねて、浅田次郎は執筆をしていたようだ。夏でもひんやりとし、崇神天皇由来の関東最大の御岳信仰のスポットであるのだが、魑魅魍魎の霊が、ひょいと顔を覗かせそうな妖しげな気配に満ちている。ここで、幼い頃、浅田次郎は、叔母たちに不思議な霊異譚をことあるごとに聞かされていたらしい。
1995年、およそ10年前に発表された「地下鉄(メトロ)に乗って」であるが、吉川英治文学新人賞を受けており、僕も好きな小説である。
もうひとつ、関心を持ったのは、予告編のCMでさんざん聞いた人も多かろうが、小林武史作曲、Salyuの唄で奏でられる主題曲「プラットホーム」の調べに惹きつけられたからだ。もちろん、このコンビは、2001年のあの岩井俊二監督の「リリィ・シュシュのすべて」と同じである。あのLily Chou-Chouは、2004年からはSalyuという名前で登場しているが、あの力強いしかし黄泉の国から響いてくるような歌声がまた・・・。
長谷部真次(堤真一)は43歳、小さな下着メーカーの営業マンだ。地下鉄の通路で、高校で死んだ兄をみかけた気になる。奇しくも、今日は、兄の命日。追いかけて地上に出ると、そこは、昭和39年の東京オリンピックを間近に控えて沸き立つ東京であった。この年、この日、兄は事故で死んだ。とすれば、その事故を防げないか、真次は兄を捜し出し、家に送り届け、絶対家を出ないようにと念を押し、現代に戻ることになる。
一度、過去に戻った真次は、その後も、運命に導かれるように、「地下鉄(メトロ)に乗って」過去を遍歴することになる。
次に辿り着いたのは、昭和21年、戦後闇市のエネルギーと生存本能にあふれた時代。そこで、満州から生還したアムールと名乗る若き日のふてぶてしく時代を生きる父親(大沢たかお)と会う。また、不思議なことに、恋人の軽部みち子(岡本綾)の姿も見かける。
また、別の日、この時代で、米兵との貴重な砂糖の取引で、見事なペテンを演じる父を見る。そして、そのペテンの片棒をかつぐ父の愛人のお時(常盤貴子)の姿も。
次は、昭和20年、出征する若き父である小沼佐吉と銀座線で出会う。佐吉は大切そうに、真次の母から送られた「千人針」を持っている。はじめて地下鉄に乗ったという父親を真次は、万歳三唱で送り出す。
またその次では、佐吉が送られた満州の前線で、ソ連兵士相手に戦い、子供たちを逃がす父親を目撃する。
そして、最後、もう一度兄が死んだ日の昭和39年に真次は降り立つ。
そこでは、過去の世界にたびたび遭遇した恋人みち子と、一緒である。
以前、家に送り届けたにかかわらず、また、父と争った兄は、母とのやり取りの中で、自分が佐吉の子ではないことを知り、放心の中で、車にはねられて命を落とす。
みち子は決意したかのように、坂の階段を真次を伴って歩く。階段の上には、「BAR アムール」が。そこには、身篭ったお時がいる。途中で「子供を死なせてしまった」佐吉が酔いどれて入ってくる・・・。
こうした過去への彷徨は、父に反発し高校生で家を出て母方の姓を名乗り、財閥を築き上げた父にも会わず、危篤の知らせにも面会することを拒絶する真次に必然のように訪れたタイムトリップである。
「自分が生まれる前」の父を知り、その子供に寄せる愛情を感じ、本当は弟に「兄さんは父親そっくりだ」と揶揄されることも、喜びのように感じてくるその「父子」の和解のために用意された、奇跡であった。
そして、もうひとつの秘密が明らかにされる。みち子は、佐吉とお時との間にできた子であった。みち子は、両親の生まれてくる自分に向けての愛情を確認する。
ここからが、本当の浅田次郎の泣かせの極地となる。
雨の中、傘を差し出す母を泣きながら抱きしめるみち子。
みち子の視線の先には真次がいる。真次は、父親の真実に触れて、安堵している。
みち子はいう。「好きな人」と「お母さん」のどちらかをとるとしたら。
お時は、みち子が何を言っているのかわからない。一般論として、「母親というものは子供の選択に任せるのよ」といったニュアンスで返す。
みち子は母を見る。そして真次を見る。たぶんふたりに同じように「忘れない」と言葉を告げる。
そして、「ごめんなさい、お母さん」と呟いて、母を抱えて階段を落下する。
身重の母は、その故に赤ちゃんを喪う。つまり、お腹の中のみち子を。
その小さな生命が燃え尽きると同時に、みち子もまた消失する。
みち子は、真次と異母兄妹である。真次には家庭も子供もいる。父親の不倫のせいで生まれた自分が、また報われぬ愛を紡ぐ。もう、充分、愛された。自分は消える。そのためには、歴史を変える。あの日に戻って。このみち子の悲しい決断が、この作品の最大の泣かせどころとなる。
本当は、前から、みち子はこうなることがわかっていたのだ。いつも、儚げで、切なげで、なにかを真次に言いそびれていた。
なにかを決意して、階段を上る前に、みち子は強く真次を抱擁している。そして、そっと、真次から贈られた指輪をはずして、真次のポケットに忍び込ませている。
もう、自分は、この世界から消える。だから、真次との愛の日々は、なかったことにしてしまうのだ、と。
もしかしたら、これまでの真次の過去への道先案内をしたのは、亡霊となったみち子が用意したことではなかったか・・・。
96年に「月とキャベツ」で長編デヴューし、04年「深呼吸の必要」でサトウキビ畑で働く青年たちの日々を瑞々しく描き評価を高めた篠原哲雄監督だが、歴史をまたぐような叙情的なストーリーを映画化することが、それほど得意ではないように僕には見える。
けれども、自分も20年ほど前父親を突然亡くし、ほんとうの別れをしていなかったのではと語る主演の堤真一や、20年にわたる父親の場面を演じ分け、自分としての役者人生の転機になったと語る大沢たかおら、演技派の役者陣に助けられた。
また、CGに頼らず、営団地下鉄の全面協力があったとしても、当時の資料からいきいきと町並みを再現した美術の金田克美や、「グエムル」「殺人の追憶」などを通じて韓国最高のエディターといわれるキム・ソンミン、そして前述した音楽の小林武史やSalyuによって、充分合格点がつけられる作品に仕上がったといえるのではないか。
あなたは父になる前の父親を知っていますか?
あなたが生まれる前の母親に会いたいですか?
このコピーは、邦画史上、最高に心を揺すぶる名コピーである。
私の韓流サイトで
こちらの記事を紹介させて頂きました
http://blog.livedoor.jp/kabukom1175/archives/50954903.html
弊ブログへのトラックバック、ありがとうございます。
こちらからも、コメントとトラックバックのお返しを失礼致します。
この作品は、時間を行き来する手段 等、細部の疑問や終盤の物語展開があまり好きではないのですが、特に大沢たかおさんと常盤貴子さんの表現力溢れる演技が良いと感じた映画でありました。
また遊びに来させて頂きます。
ではまた。
この作品にTBをいただくと、その方がどんな感想を書かれているか、
かなりビクビクしてお邪魔してたのですが、
kimion20002000さんの感想のTBをいただけて嬉しいです。
原作ファンで、主人公と堤さんのイメージが違うな、と思いつつ観たのですが、
原作の持つ雰囲気を丁寧に再現しようとする思いが感じられ、
もともと、好きな小説であったために、わたしはこれは○だったのですが、
これ以上はないほどの酷評(特に、みち子の最後の行動など)に
あまりにもたくさん遭遇したので、もうこの作品には触れないでほしいとさえ思ってました。
映画や小説の感想は人それぞれだから、
何をどう言っても自由なのでそれは仕方ないことだとはわかってるんですけど、
やっぱり好きな作品であると相当凹んでしまいます。
紹介記事は http://h99.blog96.fc2.com/blog-entry-767.html です。
これからもよろしくお願いいたします^^
常盤貴子は、嵌るときと、嵌らないときの差が大きい役者さんですが(笑)、今回はメリハリの利いたいい演技であったと思います。
はは、そうですか。
酷評を受けそうな、映画ですけどね。
どんな、酷評なのか、楽しみにみてみましょう(笑)
合格点ですか…
個人的には去年のワーストワンと思っていました。(ブログにはあげてませんが)
もちろん感想は十人十色、色々でいいのですが、なんか、いい評価している方の感想を読むとうれしくなりますね。
「月とキャベツ」とか「深呼吸の必要」はよかったんですけどねえ。物語を語らなければいけない映画はちょっと苦手だったんでしょうか。
はは、ワースト1ですか。
そういう評価もありでしょうね。
僕は10点満点中5点ですが、役者2点、美術1点、音楽2点が獲得ポイントです(笑)
「深呼吸の必要」は、肩肘がはってなくて、とても、良かったですね。