『仕立て屋の恋』などフランス映画界を代表する女優サンドリーヌ・ボネールが、自閉症と25年間闘い続けた実の妹の姿を追ったドキュメンタリー。初の長編監督として脚本・撮影もこなしたサンドリーヌは、妹サビーヌの若いころの姿から、不適切な診断を経て施設に暮らすはめになった現在までの変化を慈愛に満ちた姉の視点から映し出す。自閉症患者ケアの問題に一石を投じると同時に、容赦ない悲劇に見舞われた姉妹の姿に心を揺さぶられる。[もっと詳しく]
「嬉しくて、泣いているの」とサビーヌは言うのだった。
サンドリーヌ・ボネールはパトリス・ルコント監督の『仕立て屋の恋』や『親密すぎるうちあけ話』などの演技をみてもわかるが、とても聡明でそして女性的魅力にも富んだ、演技派女優である。
彼女は11人兄弟の7女であり、1歳違いの妹であるサビーヌが28歳の時から5年間精神病院に入り、変わり果てた姿に変貌したことに衝撃を受け、自らが長編ドキュメンタリーとしてその妹の姿を捉えることになったのが、この作品である。
ボネールは制作にあたって、相当悩んだらしい。
家族のプライバシーを曝け出すことになるのでは・・・。
セレブである自分の売名行為に見られるのでは・・・。
果たして冷静に妹の姿を監督という立場からカメラに収めることはできるのか・・・。
なにより、サビーヌにとって「撮られる」ことの意味は何なんだろう・・・。
そういう躊躇を振り切って、信頼できる仲間の協力を得て、作品化を決意したのは、なにより「自閉症」に対するケアを果たす専門的施設が整備されていないことを公に訴えたい、というきわめて政治的な意図があったと、率直に語っている。
この「地味な」作品は、しかし第60回カンヌ映画祭で、国際批評家連盟賞、アート&エッセイ特別賞で迎えられ、国際的な20を超える映画祭に招待されたのである。
サビーヌは陽気で美しく芸術的才能を持った少女だった。
そのことは、昔のサビーヌをプライベートに撮ったのであろう8mmフィルムを見れば、すぐにわかることだ。
でも、サビーヌはちょっと変わった子として周囲に馴染めないことがあり、学校でもいじめにあったりもしたらしい。
兄弟がそれぞれ家を出て独立したあとも、サビーヌは一人母親と暮らしていたらしい。
兄の死も原因のひとつだったらしいが、孤立感から衝動的暴力に出るようになり、母親も面倒が見れなくなり、精神病院に入院することになった。
その精神病院で正しく「自閉症」であることが把握されなかったようだ。
入院して1年目にして、妹の容貌もすっかり変わってしまった。
たぶん、監禁的なふるまいがあったのだろうし、抗精神病薬の大量投与があったのだろう。
サビーヌは体重が30kgも増え、すべてが精神病施設の「治療方針」のせいとはいえないとしても、明らかに「自閉症」の典型的症状を明確に(深刻に)呈するようになったのである。
視線回避、呼び名回避、相互性の欠如、独特の言語、極端なこだわり、常同行動、自傷行為、乱暴行為、パニック・・・。
以前、ある契機があり、自閉症の本を何冊か読んだことがある。
「発達障害」のなかでも「広汎性発達障害」とされ、多くは3歳までの低年齢期になんらかの発達上の「偏り」が観察されるとされる。
知的障害を伴うものもあれば、そうでないものもある。
「自閉症スペクトラム」あるいは「自閉症連続体」などといわれるが、症状の範囲が幅広く、また完治が困難だともされる。
「アスベルガー症候群」や「サヴァン症候群」などでは、むしろ彼ら特有のひとつの能力を肯定的に見ようという論者もいる。
原因に関しても、昔は「母原病」などとされ、母親の虐待や過保護が原因ではないかということで、自閉症の子を持つ親が自分を責め、苦しんだことも多くあったようだ。
現在では、脳の器質障害の一種とする見解が多数を占め、「他者の動作を鏡をみているように自分も反応する」とされる「ミラーニューロン」の障害ではないかという説もあったが、だとしてもこれですべてが説明できるわけではない。
「自閉症」という言葉から、日本では「鬱病」や「引きこもり」と混在してしまう人々もいるが、誤解であり、また「統合失調症」と併発するケースはほとんどなく、いわゆる「知的障害」とも異なっている。
このレヴューでも、「自閉症」である主人公のドラマに何回か言及したことがある。
たとえば、韓国映画の『マラソン』がそうだ。
ここで、チョ・スンウが演じた自閉症の青年に関して、僕はこんなことを書いている。
言葉を鸚鵡返しにする。集中できない。ものを交換するという概念がない。興味に入ると、他の世界がみえなくなる。客観的な優先順位がつけられない。整理整頓を好む。逆に、位置や順番が変わると、置き換えが出来ず、混乱する・・・。
正確な症例をあらわす定義ではない。
だけど、たったひとつの映画で、少なくとも僕は、「自閉症」の特徴のごく一部を把握することができた。
もちろん、これは『マラソン』の主人公の青年の一部の断面の観察にしか過ぎず、サビーヌはまた少し異なっているようにも思える。
どちらにせよ、現在の認知で言えば、そのメカニズムはまだまだ不明の領域に属するのだろう。
ただ、「自閉症」を「独特の特性」ととらえ、彼らの「不適応を理解し環境適応をフォローする」という認識には向かっているようだ。
日本でもようやく2005年に「発達障害者支援法」が策定された。
「自閉症児」そしてその「保護者」にとって、現実の対応がまだまだお寒い限りであるということは別としても。
ボネールはインタヴューに、次のように答えている。
私はあるがままのサビーヌを撮りたかったのです。きれいなところ、美しいと言えないところ。優しい面と暴力的な面。罵倒している時は下品であり、バッハのプレリュードを演奏している時は音楽の名手です。自閉症者は必ずしも自分の殻に閉じこもった人ばかりではありません。また、映画『レインマン』のように天才的な才能を持つ人でもないのです。自閉症者について一般に語られている側面とは違うものを示したかったのです。非効果的で不条理なシステムを描くだけでなく、自閉症者と一緒に過ごす時間を描きたかったのです。
自閉症者の多くは人が思うほど不快な人間ではありません。彼らを恐れる必要もないのです。彼らの表現方法は一般人とは異なりますが、それほど大きな差があるわけではありません。不安や悲しみなど私たちと同じ感情を持っています。他者との関係において、私たちは感情をコントロールすることを知っていて、教わった規則やルールを守ります。そこが彼らと私たちの違いです。
しかし彼らの場合、感情が高まって抑えるのが難しくなった時、そして言葉で表すのが難しくなった時、体で感情を表現するのです。サビーヌは38歳ですが、精神的には幼児です。不満を表す時、子供のように自分の手を噛みます。子供の場合、教育と共に成長すると私たちは知っているので、手を噛んでも私たちはその行為を受け入れます。しかし大人の場合、同じ行為を受け入れることが難しいのです。
「サンドリーヌ、明日も明後日も会いに来てくれる?」
「ええ、サビーヌ、約束するわ」
何度も何度も、同じ会話が繰り返される。
僕たちは、姉の眼差しと、妹への抱擁の深さに、疑いを差し挟むことはない。
しかし、たぶん、ボネールは、自分たち自身も妹が「自閉症」であったことをわからないまま入院させざるを得なかったことに、激しい悔いがある筈なのだ。
どこかで、自分を処罰しているかのような、懺悔の思いもあるのではないか。
しかし、この作品の感想をサビーヌに問いかけると、サビーヌからは思わぬ答えが返ってきたのだ。
「私の、仕事だったと思っているわ」
サビーヌは、ちゃんとわかっている。
そして、毎日のように、この作品を、そしてそこに挿入される美しく快活であった昔の自分に見入っては、泣き出すのだ。
その背後では、障害を持つ仲間や、施設のスタッフ(とてもよく関係をとっている)が、見守っている。
「嬉しくて、泣いているの」
ボネールの躊躇も、この言葉で消え去ったろう。
そして僕たちも、少し、嬉しくなる。
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