サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 10485「食堂かたつむり」★★★★★★☆☆☆☆

2010年09月13日 | 座布団シネマ:さ行

小川糸原作の同名のベストセラー小説を『ウール100%』の富永まい監督が映画化した、じんわりと心にしみる人生賛歌。失恋の痛手から一時的に心因性失声症を患った主人公が実家に戻り、食堂を開いて人々を料理で癒やしていく様を描く。ヒロインは自身も大の料理好きだという柴咲コウ。その母親役を『ディア・ドクター』の余貴美子が演じている。アニメーションやCGを交えた、ファンタジックな世界に引き込まれる。[もっと詳しく]

珠玉の作品の映画化の、期待度半分、不安度半分ということ。
小川糸の「食堂かたつむり」が08年にポプラ社から上梓された時、ほのぼのとした挿画や好感の持てる装丁のせいで思わず買ってしまった。
一読しての印象は、この人は小説家志望と言うよりは、違う分野から出てきた人だろうな、ということだった。
十年ほど前に「リトルモア」で小説を発表していることや、その後「春嵐」という名義で作詞家として活躍していたことや、前年に「ちょうちょ」というタイトルの絵本を上梓していたことを、後から知った。
「食堂かたつむり」は書評などでも好意的に扱われて、80万部を超すベストセラーとなった。
僕はすぐに、この作品の映画化のオファーはあるだろうが、なかなか難しいだろうな、と思ったことを覚えている。



それほど文芸作品の新作のいい読者ではない僕のようなものにとっても、1年に何冊かは大切に本棚にたてかけておきたい文芸書は存在する。
小川糸の「食堂かたつむり」はまさにそういう本だった。
何人かの友人たちにも、一読を薦めたりしたものだ。
そうした原作の映画化に対しては、期待半分、不安半分ということになる。
もちろん、原作の映画化の権利を取得して、映画化プロジェクトがスタートしてしまえば、監督をはじめとするスタッフたちに、原作の料理の仕方はバトンタッチされることになる。
それは、原作を大きく改変しようが、新しい内容を加味しようが、そのこと事態は問題ではない。



期待半分というのは、原作から受け取ったイメージが、映画のスタッフたちの手によってどのように映像化され、それがまた新たな感動や解釈や驚きをもたせてくれるかどうか、ということに対する期待である。
不安半分というのは、「原作」のもつイメージの拡がりがせっかく映像化されるのに、逆に狭まったり、単純な置き換えになっていたり、陳腐な解釈になってしまったりすることへの失望感である。
予算の問題や、製作体制の問題や、役者の問題やということがさまざまあるとしても、少なくとも自分がほれ込んだ原作に限ってみれば、まあ7割から8割は、失望ないしこんなものかなという寂量感に襲われたというところが正直なところだ。



「食堂かたつむり」の映画化は難しいだろうなと思った理由は、ふたつある。
ひとつは主人公倫子が実家の物置小屋を改造して作った「食堂かたつむり」の厨房や食卓が、倫子ひとりで一日一組の客をもてなすという、とても静的でこじんまりとした空間であることだ。
洋の東西は問わず、料理ないし厨房映画の名作は多いし、僕も愉しみにしている。
しかし、そのほとんどは、賑やかな厨房や食堂で生起するさまざまな人生模様が、そのもてなされる料理の五感を刺激するレシピと重複して、独特のリズム感を与えるからだ。
「食堂」の喧騒もまた、馥郁たる食欲を喚起するかというような。
けれど、「食堂かたつむり」では、倫子がお客の人となりや期待するものをイメージしながら、祈るような気持ちで食材を選び、丁寧に調理し、ひっそりと料理のある空間を差し出すというところに魅力がある。
小説で読めば(映画では大幅にもてなす相手の客とのエピソードは割愛されることになるが)それぞれの相手への一期一会のようなもてなしの仕方が、とても丁寧に描写されていて、読み手の中に映像がくっきりとうかびあがることになる。
それが映像的説明では過剰になったり、過少になったりするのではないか、という心配である。



もうひとつは、倫子が失恋の痛手から一時的な心因性失声症になっているという設定である。
周囲とのコミュニケーションはもちろん不自由を極めることになる。
けれども、それが小説であれば、倫子が最小限必要な応答は、さっと差し出すメモが、その内容が文字として書かれているから問題はない。
もちろん、内面の声は、文章の中で説明されるから、かえって饒舌な会話文より、伝えたい気持ちや言葉が文字として表出されているといってもいい。
しかし映画では、いくら表情や立ち居振る舞いで倫子の感情はある程度伝わるとしても、限界があるということだ。



冨永まいという女性監督の手による『食堂かたつむり』でいえば、それらふたつの危惧は、半分は杞憂に過ぎなかったというか、そのことを逆手に取るようにうまく脚本や演出がなされているな、と感じられた。
しかしもう半分で言えば、やっぱりこうするしかないよな、といった想定の範囲内という物足りなさは残った。
冨永まいで印象深かったのは『ウール100%』(05年)という作品だ。
少女のまま歳をとった奇妙な老女を岸田今日子と吉行和子に演じさせ、ごみとか物で一杯の木造家屋で奇妙なメルヘン風というかシュールというか、人形劇やアニメやCGも挿入しながら、不思議なテイストの作品に仕上げていた。
そういう意味ではよくは知らないが、正統的な映画の世界で脚本や演出やという作劇を、地道に学んできた流れの才能ではないところから来た人だな、という印象を持ったのだ。



今回の「食堂かたつむり」では原作と較べて、食堂のもてなしの部分をかなり圧縮し、倫子(柴崎コウ)とおかんであるルリコ(余貴美子)の母子物語の比重を意識的に高めたことと、御得意のメルヘンチックなアニメーションやCGを援用しながら、ペット豚であるエルメスに空を飛ばせたりしながら、原作にはないお伽噺のような童話のようなシーンをあえて挿入したことだ。
ある意味で、冨永まいらしいまとめかたであることは確かだ。
そして、原作よりもっと意味づけたのは、登場人物たちの性格を色で表象したことだ。
倫子は白から黄色へ、ルリコは赤、応援団になる素朴な熊さんは土色、江波杏子扮する未亡人は黒から紫へといったように。
この試みは、映像的であり、ある程度成功している。



主人公の倫子を演じる柴崎コウは、映画で言えば『GO』(01年)と『メゾン・ド・ヒミコ』(05年)以外は、『少林少女』をはじめロクな映画に出演していないな、という思いがある。
余計なお世話かもしれないが、事務所が馬鹿なのだと僕は思い決めている(笑)。
そういう意味では、久しぶりに静かな柴崎コウを見ることが出来て、本人が料理好きなこともあるのかもしれないが、とても好感のもてる作品だった。
「生きることは食べること」という主題もいいし、「願いがかなうふしぎなごはん」というコンセプトも、今風だが悪くはない。
倫子が熊さんにプレゼントされた三輪車で、里山を材料集めに走り回るロケハンも成功していると思う。
けれど、やっぱりなと思うのは、失声症の倫子が最初は言葉をモノローグのような呟きで表現させ、豚のエルメスだって擬人語で受け答えしており、このままこの調子で押し通すのかと思ったら、すぐに「内面の声」がいっさい出されなくなったことだ。
最初の状況の手っ取り早い説明のためという解釈はできるのだが、そのことは最後までひっかかってしまった。

kimion20002000の関連レヴュー

メゾン・ド・ヒミコ









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2 コメント

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こんばんわ♪ (maru♪)
2010-09-21 01:12:56
TB&コメントありがとうございました!

こちらからのTB&リンク状況が相変わらずなので、コメントのみで失礼させていただきます。

原作は後から読みましたが、映画鑑賞時は予備知識なしで見ました。
「生きることは食べること」というテーマについても知らずに見たのですが、
お妾さんがスゴイ勢いで食事するシーンを見て、自然に感じていました。
その辺りを考えると、映画版も成功といえるのかなと思ったりします。
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maru♪さん (kimion20002000)
2010-09-21 02:48:38
こんにちは。
なかなか成功だったと思いますよ。
「かたつむり食堂」の美術とか、登場人物の衣裳とか、料理の品々とか、ちょっとした細部に手抜きがなかったのがいいですね。
この監督、絵を描くのがうまくて、スタッフにその絵でイメージを伝えているのかしら、と思いましたね。
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