サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

打撃の神様/川上哲治(元巨人監督)/93歳

2013年10月30日 | 毎日がメメント・モリ

打撃の神様」川上哲治さん死去 戒名は「大徹院赤心哲山居士」

東スポWeb 10月30日(水)16時35分配信

 プロ野球・元巨人監督で「打撃の神様」「V9監督」として知られた川上哲治さんが28日午後4時58分、東京都稲城市内のよみうりランド慶友病院で老衰のため死去していたことが30日、分かった。93歳だった。


 故人の遺志により、すでに近親者のみによる密葬を執り行った。

 家族によると、川上さんはこの春先までは車椅子にも頼らず元気に過ごしていたが、自宅の居間で転倒し、肋骨(ろっこつ)の骨折。これを引き金に持病の心臓病が悪化し、肺に水がたまるなどの症状を呈し、以来治療に専念してきた。一時は歩行やボール投げなど、リハビリをするところまで回復した時期もあったが、その後、全身の免疫状態が低下する老衰の症状が急速に進んだ。

 戒名は「大徹院赤心哲山居士」。

 川上さんは熊本工から1938年に東京巨人軍に投手として入団し、その後、打者に転向。「赤バット」で人気を博し、人間離れした打撃術から「打撃の神様」といわれた。61年に巨人監督に就任し、65年からは9年連続日本一の偉業を達成した。巨人の背番号「16」は永久欠番となった。

 55歳で監督を退いた後は、70歳を過ぎるまで少年野球教室での子供たちへの指導に力を注ぎ、80歳まではNHKで野球解説の仕事も続けてきた。趣味のゴルフは90歳近くまでカートに乗って、パートナーに助けられながらラウンドすることができた。

 家族は「一日も、ひとときもじっとしていない、どんなことにも常に全力投球で、93年間の人生を駆け抜けていったように思います。悔いのない大往生でございました」と文書で明かした。

川上哲治の選手時代の活躍に対して、知っているような気になることがあるが、知るわけがない。
映像や漫画などであとから刷り込まれたものである。
最初は投手であり、「投手で4番」で先発したこともあることなど。もちろん戦前のことだ。
川上の代名詞とも言われた「赤バット」で登場してCM出演第1号と言われたこと。これも戦後、1946年の1年間だけだ。
「ボールが止まって見えた」という有名なエピソードも1950年、阪神のバースに抜かれるまで記録を持っていた打率377も1951年であり、最少三振タイ記録6というのもこのあたりだ。
つまり、僕が生まれたのは1953年だから、このあたりは生まれる前の世界のことだった。

現役最後は、長嶋に4番の座を譲った1957年。ここで僕は幼稚園生なのだがお兄ちゃんたちと三角野球に入れてもらったりして、川上の名前をわずかながら記憶しているぐらいなものだ。
だから僕の記憶は、監督としての川上哲治であり、とくに1973年のV9達成時はさすがに20歳、あまりに強すぎる巨人に反発し、ということは川上に反発し、阪神ばかりを応援していた。

だから、なんとなく川上のことを見たような気になっているのは、「巨人の星」はじめ多くの野球漫画のせいである。
それにしても、永久欠番16番とともに、プロ野球史上最高の打者であり、監督であり、という評価は、たとえ長嶋・王であろうともひっくりかえすことができないというのは、とんでもないことである・・・合掌! 


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