サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

黙阿弥三代/河竹登志夫(歌舞伎研究家)/88歳

2013年05月07日 | 毎日がメメント・モリ

演劇研究家、河竹登志夫さん死去 歌舞伎を世界に紹介

産経新聞 5月7日(火)11時33分配信

 歌舞伎研究の第一人者で文化功労者の演劇研究家、河竹登志夫(かわたけ・としお、本名・俊雄=としお)さんが6日午後0時28分、心不全のため東京都内の病院で死去した。88歳。東京都出身。通夜は9日午後6時、葬儀・告別式は10日午前11時半、東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。喪主は妻、良子(よしこ)さん。

 幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎作者、河竹黙阿弥の曾孫。歌舞伎と海外の演劇を比較した比較演劇学を提唱し、半世紀近くかけて『比較演劇学』3部作を執筆。河竹家4代の歴史をつづった『作者の家』も厳密な考証と高い文学性を評価された。歌舞伎の海外公演などで世界に広く日本文化を紹介した功績などで平成13年、文化功労者に認定。今年3月には東京・銀座の歌舞伎座で行われた「古式顔寄せ手打式」で演目を読み上げていた。

歌舞伎にそれほど明るくない僕だが、「演劇論」を読みあさっていた過程の中で、ともあれ、この河竹一族のお世話になった。
河竹登志夫の祖父は、あの黙阿弥である。
黙阿弥は、日本橋の裕福な商屋に生まれ、若い頃から徹底した読書三昧、五代目鶴屋南北門下となりその後、二代目河竹新七を襲名し、立作者となる。
生涯書いた演目は三百余り、坪内逍遥は新七のことを「江戸演劇の大問屋」「明治の近松」「我国の沙翁」と絶賛している。
演劇改良運動の連中立ちに嫌気がさして「黙阿弥」と称してこれを無視するような行動にも出た。

この黙阿弥の娘のところに逍遥の紹介で養子となったのが河竹繁俊。
歌舞伎史、比較演劇史で早稲田で教授をしながら、演劇博物館館長、日本演劇学会初代会長を勤めた。

僕は岩波から出たこの人の『日本演劇全史』を通読したことがある。

その繁俊の次男が河竹登志夫。
この人は、歌舞伎と西洋演劇の比較研究の第一人者だが、歌舞伎の国際化にとってもなくてはならない人であったし、また著書も軽いエッセイーも含めてまことに多く、読みやすく愛読していた。

とくに、黙阿弥以降の河竹家の歴史を描いた『作者の家 』は名作である。

河竹家三代、いま、新歌舞伎座のこけら落としで注目を浴びている歌舞伎であるが、河竹登志夫をつぐ人は、さているのかしら・・・合掌! 

 


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