サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 07265「殯(もがり)の森」★★★★★★★☆☆☆

2007年11月21日 | 座布団シネマ:ま行

『萌の朱雀(もえのすざく)』でカンヌ国際映画祭でカメラドールを受賞し、世界中から注目されている河瀬直美監督の最新作。監督自身の故郷である奈良を舞台に、人間の生と死を描く人間ドラマ。役者初挑戦のうだしげきが、妻を亡くし、心の空白をうめようと懸命に生きる男を熱演。介護福祉士として、彼と心の交流をかわす真千子に『萌の朱雀(もえのすざく)』でも河野作品に出演している尾野真千子が透明感ある演技でみせる。奈良の山間部の美しい風景が心にしみる珠玉の名作。[もっと詳しく]

「こうしゃんなあかんってこと、ないから」。この言葉を支えに、河瀬直美の十年もあった。

「萌の朱雀」がカンヌで新人賞にあたるカメラドールを受賞したのは、1997年のことである。
彼女にとっては、初の35mmの商業映画であるが、それ以前のドキュメント作品に馴染みのなかった僕にとっては、ひとつの驚きであった。
生まれ育った奈良の山間地の小さな村。その家族の崩壊が、地元の素人を役者とすることで、奇妙なリアリティで観客に伝わってくる・・・。
後に結婚、離婚をしたプロデューサーである仙頭武則らスタッフの力もあるだろうが、河瀬直美という女性が、自分の方法論をすでにしっかりと確立していたことが、驚きであったのだ。



河瀬直美の方法論とは何か?
ひとつは、商業作品であっても、ドキュメンタリーな手法を、基底に置いている事である。
もちろん、書き下ろしのシナリオは用意されているのだが、もともとドラマを制作するということよりは、ある設定の中で、リアリティがフィルムのなかに立ち現れ、定着されることを、時間をかけて、我慢強く、待っているような構えを持っている。
そのリアリティを獲得するために、生まれ育った奈良の山間地を舞台にし続けることに固執している。
あるいは、一部の役者をのぞいて、地元の生活者である素人を起用して、単なるエキストラではない、存在感をもった息遣いのようなものを引き出そうとしている。
もうひとつは、自身の固有の体験を、いつも作品の根底に置いている事である。
幼い時、実父と生き別れ、実母とは離別した。母方の祖母の妹に育てられながら、どこかで、遺棄された自分を意識せざるを得なかった。
世界には、どれほども描かれるべき主題があるかもしれない。しかし、自分が、映画を製作するということは、いま在る自分がなにものなのか、それを発見するためのものでしか、在りようはずはない。

「殯(もがり)の森」という作品の中でも、その方法論は、緩いではいない。
場所に設定したのは、奈良東部の山間地、タイトルにある森は世界遺産にも指定されている「春日奥山原生林」である。古い一軒屋を改築した軽度な認知症患者を対象とするグループハウス「ほととぎす」から、物語は始まる。



主人公であるしげきを演じたのは、地元に根付いた表現者であり、河瀬直美の制作活動の応援団の重要な一人である、うだしげるさんである。もちろん、映画初出演、その独特の存在感に感じるものがあり、この作品の主役に立ってくれと、河瀬直美が口説いたのである。
もうひとりの重要な登場人物である介護福祉士の真千子を演じるのは尾野真千子。10年前の「萌の朱雀」で地元から、河瀬監督がスカウトし、その後、存在感の在る女優として育った。
いつものように、特有の方言で普通のように会話をする演者たちの大半は、地元民であろう。グループハウスの認知症の人たちもまた。
そして、河瀬直美自身が、この数年間、再婚し、子供を産み、育てながら、仕事を続け、認知症である祖母を介護し続けた経験が、この作品の始路となっている。



33年前に妻を亡くしたしげきは、軽度の認知症であるが、妻への想いから離れられない。
一方、子どもを亡くしたことで、夫とも別れることになった真千子は、介護福祉士となってハウスに勤め始めるが、自信が持てないでいる。
しげきの妻の名前は真子。真千子と似ている。死者を断ち切ることが出来ない二人は、次第に心を通わせあいはじめる。
しげきの妻の墓参りに真千子は同行するが、途中で車が脱輪し、助けを呼びに行っている間に、しげきは森に入り込む。
真千子の制止にかかわらず、川に入り込むしげき、泣き喚く真千子に鉄砲水が襲い掛かる。
ずぶ濡れになった二人は、火を熾し、素肌を寄せ合って、暖をとる。
翌朝、しげきは妻の幻影に導かれるかのように、妻を埋葬した大木の下で、安心したかのように横たわるのだが・・・。

「殯(もがり)」とは、敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間またはその場所をいう。「喪明け」から来ているのではないか、とも言われている。
「生者と死者の間にある結び目のようなあわい」、そのことが河瀬直美の主題であり、そのことを隠喩できるかどうかだけが、この作品の核心となっている。



緑深い山々、木々が風に揺れている。人が分け入ることも容易でない吉野の森の精霊たちが死者の声をたずさえて、生者たちに呼びかけているようだ。
冒頭、田園の一本道を右から左へ、ゆっくりと、葬列が進む。その葬列の調度を準備する村人たち。グループホームに集う老人たちを前に、法話するお坊さん。
「生きるということは・・・」と説法が始まる。
「二つの意味が在る。ひとつは文字通り、食べて呼吸して存在してあること、もうひとつは、生きているという実感を持つこと」といったように。
この説法は、その後のしげきの行動の布石になっているのかもしれない。
しげきにとっては、妻である真子を想起することだけが、「生きている」意味なのだ。
そこに、認知症が影響しているかどうかは、どうでもいいことだ。
そして、子どもを死なせ、またひとり死者の声から離れられない、真千子が出現する。



習字紙の真千子という文字の「千」の字を激しく塗りつぶすしげき。
真子との思い出が綴られた日誌が入ったリュックを奪われまいと、真千子を突き飛ばすしげき。
茶畑の茂みで、真千子と追っかけごっこに戯れるしげき。
割れたスイカをむしゃぶり、真千子にも食べさせるしげき。
焚き火を前に、真千子に身体を擦られながら、身を委ねるしげき。
真子とのピアノの連弾を思い出し、また真子の幻覚とダンスを踊るしげき。

この地方には、死者を密かに、森の中に埋葬する、風習が残っているという。
日常お参りする墓を「参り墓」、そして森深く埋葬した墓を「埋め墓」という。
冒頭、お坊さんの33回忌ですね、という言葉が契機になったのかもしれない。
あるいは、真千子の面影が、真子と二重写しになったのかもしれない。
「死んだら、どこに行くのか?」
しげきには、答えはひとつである。
真子の埋め墓の前で、長い長い「殯(もがり)」を経て、ようやく自分もそこに回帰できるのである。
うっすらとしたしげきの認知症も、奥深い原生林も、哀しみを受容できる真千子の存在も、ただただ「生者と死者の間にある結び目のようなあわい」を補完してくれるものとしてある。



河瀬直美の表現したかったもの。カンヌの映画人たちが、北野武や松本人志らの話題性とは別個のところで、正しく感受していたもの。
そのことが静かに向き合ってみれば、僕たちにも十分に伝わってくる。
この古い一軒屋を改築したグループホームには、たぶん、清潔な施設基準の名の下で効率的な「隔離」とならざるを得ないところのある現在の、高齢者福祉施設と対極の価値観がある。
死者の弔いにもまた、法的な埋葬規定では抜け落ちる「殯(もがり)」の伝承がある。
冷え切ったしげきの身体を、裸身になって寄り添い温める真千子にはエロチシズムはあるとしても、どこにも性的な表出はない。
土に還るかのように、微笑んで死に逝くしげきをそっと見守る真千子には、もちろん自殺幇助の観念などない。

グループホームの主任である和歌子(渡辺真起子)は、自信を無くし生き惑っている真千子にこういう。
「こうしゃんなあかんってこと、ないから」
たぶん、河瀬直美が、カメラドールから十年、離婚、再婚、出産、介護の日々のなかで、いくつかの作品を制作し、「殯(もがり)の森」でもって
再びカンヌに挑戦するまでの日々に、一番、恃んできた「言葉」なのかもしれない。
そして、カンヌで審査員特別大賞「グランプリ」を受賞したのである。



 


 


 


 


 



 


 


 


 




 




 



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26 コメント

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TBありがとうございます (raidaisuki)
2007-11-26 05:40:56

まともなトラックバック、久しぶりにいただきました。(^_^) m(_ _)m

金沢に来訪された河瀬監督のトークを聞きました。関西弁の力強さが存在感を出してました。自分の言葉でしゃべるということの大切さに、今更ながらに気付かされたというところです。
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raidaisukiさん (kimion20002000)
2007-11-26 08:41:55
こんにちは。
関西弁っていうのは、迫力が出ますでしょう(笑)
関東人の中には、ゲッって、それだけで、敬遠する人もいますけどね。
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TBありがとうございます (悠雅)
2007-11-26 08:57:19
最近、TBが届かないことが多く、今回も失敗したようで申し訳ありません。

わたしは生まれも育ちも、現在の住まいも奈良の田舎ですが、
(もう少し便利な土地ではありますが)
同じ県内でも風習の違いを知り、改めて生きること、死ぬことを考えた作品でした。
元々、説明が極端に少ない上に、
呟くような地元の言葉を、県外の方々はどこまで聞き取ることができるんだろうと
余計な心配をしてしまいましたが、如何だったでしょう。

関西弁は、一昔前に比べたら、関東の方には違和感では少ないようですが、
今でも時々、あからさまに見下げた言い方をされる方に直面する時があって、
驚いてしまいます。
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悠雅さん (kimion20002000)
2007-11-26 13:08:10
こんにちは。
僕も、奈良には兄が住んでおり、大学時代の友人など、ある程度の土地勘はあります。
関西弁といっても、岸和田あたり、浪速あたり、河内あたり、京都、神戸・・地域によって、ずいぶん違うんですけどね(笑)
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こんにちは! (まちるだ)
2007-11-26 15:14:57
TBありがとうございました。感想をじっくり拝読いたしました。
この作品は友人がオーディションを受けたりしていて
思い入れもあったので、かなり心に響きました。
監督の執念みたいなものも感じました。
そういうものが作品からにじみ出る監督って実は
多くはないと思うので、とても貴重な人材かと思います。

また私の方にも遊びにいらしてください。
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まちるださん (kimion20002000)
2007-11-26 15:33:12
こんにちは。
河瀬監督は、作家性が強いですね。
エンターテイメントばかりが映画じゃないですから、別に退屈する人はそれはそれで、「ダイハード4.0」(いい映画ですけどね)を見て、満足すればいいのだと思います。
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TBありがとうございました (わきた・けんいち)
2007-11-26 22:03:59
トラックバック、ありがとうございました。拙ブログでは、「問題は、きちんと行く時間をつくることがてきるかどうか。『ま、そのうちにDVDが出るやろ』と横着をしないこと、ですかね。」と書きましたが、予想通り、まだ見ていません。なんだか、TBいただくことで、渇を入れていただいた感じ(?!)です。12月に入ると、地元・奈良市の映画館でも上映されるようなので、忘れないようにいくようにします。
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わきたさん (kimion20002000)
2007-11-26 22:26:49
こんにちは。
地方では、上映会運動が、中心になるんでしょうね。
忘れないように。渇!!(笑)
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こんばんは。 (ジョー)
2007-11-27 22:53:56
土地に根ざした映画っていうのもあるんですね。
その土地の風土と人々に監督自身が根ざさなかったら
できあがらなかった映画だと思いました。
日本の中のいたってローカルな映画が
遠いフランスで認められるというのも不思議な気が
します。
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ジョーさん (kimion20002000)
2007-11-27 23:39:43
こんにちは。
フランスのカンヌ映画祭はともあれ、数多くある映画祭でも評価されています。
ハリウッドとは異なる映画の価値を映画人たちは求めており、そこに非商業的な河瀬監督の方法論が、呼応する部分があるんでしょうね。
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