けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

極論を議論から排除せよ!

2014-10-12 23:08:12 | 政治
最近、朝日新聞の捏造問題などに端を発し、右寄りの主張と左寄りの主張が激しく対立することが多い。ヘイトスピーチの問題にしてもそうだろう。この様な問題に対して最近感じていることを今日は書いてみたい。

結論としては、「極論を議論から排除せよ!」ということである。極端な右寄りも極端な左寄りも有益な議論には結びつかず、同様に「極右の否定=極左の肯定」でもなければ「極左の否定=極右の肯定」にもならない。両者がお互いにバイアスを掛け合っているから、中間が何処にあるかも分かり難い中で、少しでも両者の折り合いのつくところを探そうと思うなら、極端な議論を排除し、残りの上澄みの中から答えを探すのが賢明なやり方である・・・という当たり前の話である。スポーツの世界でも、体操やフィギュアスケートなど採点競技では、最高点と最低点を排除し残りの中間的な点数の合計で評価するというルールが採用されているが、言ってみればこれと同様のアプローチをしようというものである。

まず最初に、少しばかり寄り道の議論からしてみたい。統計学の世界では、様々な物理現象においては平均値付近に度数が集中し、いわゆる正規分布と呼ばれる確率でサンプルが分布することが期待される。視聴率などの評価もそうだが、全てのサンプルに対して平均値を求めなくても、ごく一部のサンプルを基に全体を予測することが出来るのも、この様な平均値周辺にサンプルが集中することを前提としている。学生時代であれば偏差値という言葉に一喜一憂したことも多いと思うが、これも現実のテストの点数が正規分布に従うと仮定した上で、であれば自らの順位が全体のどの程度かを把握する上で役に立つので、多くの予備校などが偏差値を用いて評価をしているのである。しかし、実際の点数の分布は必ずしも正規分布に従う訳ではないので、本当はあくまでも偏差値は参考値に過ぎない。

この議論を言論空間に焼き直すとどうなるか?多くの人は、「より声が大きい主張」が全体の平均値と考える傾向があるので、その意見の周りに大多数が存在していると考えがちである。そして、人は自分の立ち位置を「常識のある人」と見られたいと思うバイアスをかけて判断する傾向があるので、世論調査などのアンケートでは、実際の考えとは別に(自分の感じている)平均値寄りの回答をしようとする傾向がある。このため、声の大きさに世論調査の結果が引きずられることが多々あるのである。

例えば慰安婦問題の様な議論においては、一番声の大きいのは議論の両極端の人だったりする。所謂、「ノイジー・マイノリティ」の人々だが、例えば右寄りの意見であれば、朝日新聞の捏造記事を受けて「慰安婦など存在しなかった!」と主張する人がいる。南京大虐殺でも、「そんなものは全くなかった!」と言ったりする。しかし、それが金で売られた人身売買の結果かどうかは別として、慰安婦となって辛い思いをした人がいたのは事実である。また、戦場であったのだから南京で死傷した中国人が多数いたのも事実である。この様な事態を受けて、左寄りの人々は「あの様な口から出まかせ、日本の恥だ!」といって「戦時中の日本兵は極悪非道の限りを尽くした!」と言ったりする。一時期話題になった「はだしのゲン」では、少年ジャンプに連載されていた前半の巻では(読者が多くの一般人向けであったので)原爆の悲惨さを訴えると共に強く生き抜く主人公の生き様が主題となっていた。後半の左翼雑誌に掲載される頃の内容は通して読んだことはないが、報道によればあることないこと好き放題に書きまくる極端な左寄りの雑誌となり下がっているようだ。この様な人々の主張を聞いていても得るものは少なく、話は泥沼に引きずり込まれるだけである。しかし、議論の中ではマスコミはこれらの極端な主張を面白おかしく取り上げるので、あたかもそれが多数派意見の対立点であるかのように感じてしまうのである。

多分、先ほどの右寄りの人と左寄りの人を1次元の軸で表したとするなら、その中間付近に分布のピークがあるように思えるのだが、世の中から聞こえてくる声を聞いていると、右側と左側にふたつの大きなピークがあり、真ん中には殆ど人が存在しない様に見えてしまう。これは多分、原発問題にしても集団的自衛権にしても同様であろう。一例としては、集団的自衛権の行使容認への賛成/反対の世論調査結果を見ると、朝日新聞や毎日新聞では反対派が多数を占め、逆に産経新聞や読売新聞では賛成派が多数派を占める。「限定的容認」などの表現の仕方で「反対派」とも「賛成派」ともカウント可能な人々は明らかに「中庸」的な人であり、その様な人々が実際には多数派を占めているのが可能性が高い。朝日新聞などはその様な人を「反対派」に取り込むために「盲目的ネガティブキャンペーン」を張るのだが、朝日新聞が本気で自分の主張が正しいと思うなら、論理的に「中庸」的な人を説得すれば良い。それを最初から諦めている時点で勝負は既にあった・・・とも言える。

この様な状況は多々あるのだが、この様な人々が議論を戦わせる時、困ったことはその両者が「自分の対極の極端な存在」を責めることで自らの主張が正しいと胸を張ることである。その様な極端な存在の主張は多くの人に嫌悪されることになるので、ついつい、その対極の主張が正しいと勘違いしてしまうのだが、しかし、その様な議論は本来は不毛な議論である。つまり、極端な右寄りの議論も極端な左寄りの議論も両方を排除し、その中間的な人々の中の「若干右寄り」と「若干左寄り」の人々が議論すれば議論は進展するのだが、極端な存在がそこに介在すると「如何にして声を大きく発言するか(物理的な大きさではなく、影響力と言う意味での大きさ)」に多くのモチベーションが割かれてしまう。
少し話が逸れるが、韓国のマスコミは産経新聞を「日本の極右新聞」と称しているが、実際には産経新聞は「若干右寄り」の新聞に過ぎない。韓国や中国が極右と呼ぶ安倍総理も同様で、産経新聞よりは若干中央よりの「ごく僅かに右寄り」の政治家に過ぎない。朝日新聞は「若干左寄り」であるが、少なくとも極端に左寄りという訳ではない。しかし、あの様な捏造の数々を平気で行っているので、「若干左寄りよりも僅かに左寄り」というのが正直なところだろう。

戦後、朝日新聞を筆頭とする多くのメディアが、戦時中の軍国主義的な紙面構成を懺悔する形で左寄りにポジションを置いたために、進歩的知識人と呼ばれたければ左寄りに位置しないと許されない時代が長く続いた。戦時中、殺されても反政府的な思想を曲げなかった左翼思想家に影響されたところもあるだろう。この結果、日本の言論空間の中心軸は一般国民の平均値よりも左寄りに位置し、そこを平均値として右か左かを判断するようになった。戦時中多くの犠牲者を出した中国や韓国を意識し、これらの国々に懺悔の気持ちを持つことも左寄りにバイアスをかける原因のもととなった。その結果、「若干左寄りよりも僅かに左寄り」の人々は保守的な産経新聞を「右翼新聞」と位置付け、安倍総理を「右傾化している」と非難することになる。しかし、それは真の平均値である原点に左寄りのバイアスをかけているからの結果であり、絶対軸で見ると正しい評価とは言えない。

重要なのは、絶対的なニュートラルの原点が何処か分からない中で、まずは個別の主義主張をこの1次元軸に照らし合わせ、極端な左寄りや極端な右寄りの主張を見極め、その両極の「ノイジー・マイノリティ」のノイズを抑圧し、残った有益な議論の中で何が議論できるかを考えることである。

これは、韓国に対して求める話ではなく、あくまで我々日本人が行うべき話である。我々が相手にするべきは韓国ではなく、欧米を中心とする世界である。残念ながら、世界の常識はかなり中国、韓国により左寄りバイアスがかけられており、中々聞く耳を持ってくれない。この場合、それが論理的には正しいとしても、例えば河野談話の撤回の様なことを言い出すと、極右の主張と勘違いされて議論にならないことになる。極左が極右を排除するロジックで出鼻をくじかれてしまうと、それに続く議論が出来なくなる。だから、「こちらも、あなたが極右と感じる様な議論は排除するし、極左の主張の反論をあなたへの反駁に利用したりしないから、あなたも極右の主張への反論を私への反駁に利用したりしないで欲しい!!」と最初に釘を刺し、両者が軸上の両端の不毛な議論に近づかない様にルールを確認し合うのが好ましい。

話は度々逸れて恐縮だが、少しばかり下記の記事を見て頂きたい。

アゴラ 2014年10月2日「格差是正措置はもう必要ない

ここでは「在特会」と「しばき隊」を比較しているが、結論は「どちもどっち」なのだが、論理的な議論を戦わせようとしているのは「在特会」で、「しばき隊」の方はレッテル張で論理的な根拠もなく業務威力妨害も平気で行っているとしている。ただ、では「在特会」が評価されるべき存在かといえば、「在特会」と検索をかけて出てくる画像を見れば、その主張が朝鮮人差別で「殺せ」と平気で主張していたりするから、これは極めて極端であることが分かる。この意味で「在特会」は世の中から否定されて然るべきなのだが、そもそもの彼らの論理的な主張自体は池田信夫氏も認めている通り、それなりに論理の世界で議論を戦わせようとしているので、この点では真っ当に評価されて然るべきでもある。では、何故、「在特会」がこの様に評価されているかと言えば「日本から出ていけ!」「殺せ!」などと言うからレイシストと呼ばれる訳で、その意味ではその様な発言が「カウンター」勢力からの反撃を許す隙となってしまうのである。先日取り上げた現代思想家の東浩紀氏の「在特会デモ&カウンター『観光』記」の中でも、東氏は「言っていることは在特会の方が酷いが、デモ現場での対立の様相をニュートラルに見ると、カウンター側の対応の方が暴力的」というニュアンスの記述をしていた。こちらも残念なケースの典型である。途中でブチ切れずに政治的な主義主張に徹していれば、今頃はもう少し真っ当に評価されていたかも知れないのに、毒ヘビと毒サソリに成り下がってしまったのであるから残念である。

以上、色々書いてきたが、朝日新聞への攻撃が過激化して極右的になるのは好ましくないし、世界で真っ当な議論をしたいなら、その様な主張をする極端な勢力との共闘は避けるべきである。対外的には、その様な極端な勢力と十把一絡げにされるのは極左的な勢力の思う壺で、その様な勢力の中にも色々いることを分からせるべきである。

現在の状況を「シメシメ・・・」と思う前に、少しばかり冷静になりたいところである。

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