けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

憲法9条に関するお勉強

2014-06-11 00:27:40 | 政治
最近、色々と面白そうな記事をあさっている中で、うさみのりや氏のブログに下記の記事を見つけた。有料のメルマガ用の記事らしく、途中までしか読むことが出来なかったが、そこまでの記述の中にお勉強になることが書かれていたので自分なりに勉強してみた。

うさみのりやのブログ2014年5月26日「メルマガ:集団的自衛権に関する解釈改憲の妥当性についてマジメに考えてみる

ここでは、集団的自衛権の議論をする中で、憲法9条について噛み砕いて説明をしている。まず、憲法9条の記述を引用してみたい。

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日本国憲法
「第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
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うさみ氏はこの文章の解釈において、第1項については構成要素を下記の様に4つに分けて説明している。

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(主語)日本国民は
(目的語)国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は
(条件)国際紛争を解決する手段としては
(述語)永久にこれを放棄する
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ここには「条件」として「国際紛争を解決する手段としては」と明記しており、この条件に合致しなければ「武力の行使を永久に放棄する」ことが必ずしも必要ではないと理解できると説明している。さらに続けて第2項において、

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(条件)前項の目的を達するため、
(一文)陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
(二文)国の交戦権は、これを認めない。
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となっており、こちらも条件である「前項の目的を達するため」を満たさなければ、「戦力の不保持」も「交戦権の放棄」も必ずしも必要ではないと理解できると説明している。この解釈により、憲法9条のもとで自衛隊の存在が認められるとのことである。

ここから先は、うさみ氏のブログは有料で読めないのだが、最後に「芦田修正」というキーワードを残しているので、Wikipediaで憲法9条を調べてみた。すると、この「芦田修正」とは、一般には第2項の「前項の目的を達するため」の加筆部分をさし、この一文を加えることで「明示的」に自衛のための戦力の保持を可能にしたと理解されているらしい。ちなみに蛇足ではあるが、このWikipediaにも憲法改正の審議過程の中で、日本共産党は「自衛戦争と侵略戦争を分けた上で、『自衛権を放棄すれば民族の独立を危くする』と第9条に反対し、結局、共産党は議決にも賛成しなかった。」ということらしい。共産党ですら反対する内容を、微妙な表現で煙に巻いて通してしまうところが何とも面白い。

ただ、憲法9条と自衛権の関係については、憲法学者の間では少々突っ込んだ議論があり、「国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄」自体は、第一次世界大戦後の1928年(昭和3年)に多国間で締結された国際条約である不戦条約(パリ不戦条約、戰爭抛棄に關する條約)において、「同条約では国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することなどを規定した。」とのことで、憲法9条の第1項の記載内容はまさに不戦条約のコピーであり、この意図することは「国際紛争を解決する手段」に対してのみ限定的に有効な条項で、自衛権を縛るものではないとの解釈がなされているらしい。つまり、素人がその文案より受けるニュアンスは全くの素人の勘違いであり、知識あるスペシャリストは常識的に限定的な解釈を取るというのである。

この様な日本国憲法は結局は日本の国会で審議されたものであり、GHQの意図は何らかのものがあったかも知れないが、少なくとも国会で審議する中でこの様なコンセンサスを取りながら、その記述から素人が受ける感覚と全く別物の法文を作り上げてきたようだ。どの程度違うものになったかについては、Wikipediaによれば、「連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、憲法草案を起草するに際して守るべき三原則として、最高司令官ダグラス・マッカーサーがホイットニー民政局長(憲法草案起草の責任者)に示した『マッカーサー・ノート』に表れている。その三原則のうちの第二原則は以下の通り。」として、下記の様に紹介している。

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(邦訳)
国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
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明らかに、個別的自衛権の行使としての戦争も放棄すべしとされているし、「日本が陸海空軍を持つ権能」や「交戦権」が与えられないことには、何ら制限条件が伴わないことにもなっている様である。つまり、アメリカからの押し付け憲法と揶揄される中で、実際にはギリギリのところで日本の都合の良い様な解釈が可能な適度な骨抜きがなされている様にも見える。ただ、この様なGHQの権威が絶対であった状況を考えれば、取り様によっては骨抜きにできる論理武装は仕込んだが、その本質的な意味の解釈を「マッカーサーノート」に求めるならば、上記のうさみ氏の説明や不戦条約の説明などは、本来のGHQの精神からかけ離れた、単なる言いがかりとも取れなくもない。
我々、法律の素人から見ると、法律とはその解釈が入り込む余地を可能な限り排除して作成されるべきもので、大方の法律、特に憲法などにその様な解釈が入り込む余地などないと信じ込んでいるところがあるが、実際には様々な人の思惑もあり、運用で何とでもなる余地を残した法案も少なくないのかも知れない。そして憲法のその例外ではないようだ。

こう考えると、憲法に解釈が加わることは憲法制定過程においても(建前は別として、本音では)想定されていたことであり、その解釈は国民のため、国家のために必要に応じて運用で逃げるノリシロを残しておいてあったのかも知れない。当然、運用で逃げるということは、その時その時の実情に合わせて判断が変わる訳で、今回も解釈が変わってもおかしくないという根拠にもなり得るかも知れない。

最後の部分は「こじつけ」のようなものだが、思っていたほど、憲法が「ギチギチ」に規定されたクリアーな法案ではないらしいことは良く分かった。この様な気が付かない幻想がある以上、今回の集団的自衛権の議論も、その辺を理解した上で判断すべきなのかも知れない。

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