けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

新型コロナに関する中間総括

2020-06-18 23:01:29 | 政治
新型コロナ、すなわち武漢肺炎に関する中間総括をしてみたい。某米国のメディアは、日本政府のやることは一見すべて悪手のように見えるが、何故か上手くいって不思議だと報じている。国外だと(国内でも?)その理由が解らないのだろうから、簡単に解説してみたい。

まず、大前提治して、東アジアエリアにおける武漢肺炎に対する免疫力が、何故か欧米よりも高い効果を発揮しているという背景は、誰にも否定しようがない。だから、現在の優等生的な結果の原因の全てが日本政府の成果であるという訳ではないのは明らか。私の理解では、非常に多くの点で、日本政府の狙いとは違った点で功を奏したことが多くあったからだと考えている。そして、狙いとは違う部分も多かったが、それなりに良い筋を突いていたのも確かだと考えている。順番に見ていこう。

まず、もっとも重要な点は何かと言えば、武漢肺炎にあたり、何を政策の最優先とすべきかという点で、日本政府は適切な判断をしたのだと思う。それは、最重要課題は「武漢肺炎による死者を最小化する」という、明確なポリシーである。このポリシーの下、その目的を達成するための手段として「医療崩壊を何がなんでも回避する」という方針が立てられた。そして医療崩壊の定義を、重篤患者に対して適切な医療リソースを提供できる状態を維持できないことと定め、それを防ぐための政策を徹底した。「適切な医療リソースを提供できる状態を維持する最善の方法」を見つけることは難しいが、逆の「適切な医療リソースを提供できない状態」を作る方法は簡単である。それは、「重篤者向けの医療リソースを、軽微な患者に回してしまうこと」なので、この真逆のアプローチをとれば良いのである。残念ながら、初期段階で武漢肺炎を指定感染症に認定してしまったがために、軽微な患者による医療リソースの食い潰しを回避するには、無用な罹患者判定を極力回避することが必要となった。そのために、入院できずに命を落とす少数の被害者を許容して、軽微と思しき感染者予備軍を敢えて病院から排除する必要があった。心を鬼にしてPCR検査を回避し、際大多数の最大幸福を優先したのである。この様に、PCR検査数を必要最小限にするのは、(日本政府は声を大にして言うことはできないが)日本政府が定めた明確な方針なのである。これが功を奏したと言える。

因みに、イタリア、スペインではPCR検査を多数行い、結果的に医療崩壊を招いた。武漢肺炎に罹患している可能性の高い人々を、免疫力が落ちた人が待ち受ける病院の待合室へ送り込めば何が起きるかは容易に予想できる。折しも、日本ではPCR検査を行わないことで日本のマスコミが日本政府を叩きまくる一大キャンペーンを張っていたので、他国の政府はこれを他山の石と勘違いし、PCR検査を積極的に行おうとした。PCR検査が出きると知れば、病院に行きたくなるのは人の性というもので、どんどん病院に患者が殺到し、彼らが医療崩壊をもたらした。はっきり言って、日本のマスメディアが世界中に誤った認識を与え、その結果として多くの市民を無用に死に追いやったというのが私の感想だ。一方で日本はといえば、どんなに医者に圧力をかけてもPCR検査を受けられないので、多くの人が病院に行くことを諦めるに至った。一方で、保健所経由で本当にヤバイ人を病院に収容することは行っていたので、完璧とは言えないまでも、バランスのよい対応を行えたのではないかと思う。

次に、このような医療崩壊を回避するためにPCR検査を最小にしながらも、それでいてパンデミックを避けるためには、効率的に罹患者を探し出す必要があった。このための手法が、クラスター対策である。日本政府の第2の方針は、このクラスター対策でパンデミックのタイミングを極力遅らせて、医療体制の再構築のための時間稼ぎを図ったのである。感染ルートを早期に探しだし、2次3次感染を潰すのである。これは、感染者数が増大した後では無意味だが、感染数が少ないときには有効であることが分かっている。実効再生産者数を抑えるためには、ツリー状に拡散して行く枝を早い段階で摘み取ることで、指数関数的に増加する状況を線形の増加に抑えることが可能になる。どちらにしろイタチごっこで徐々に数は増えていくのだが、医療体制を整えるための時間は稼ぐことができた。統計データがそれを物語っている。そうこうしているうちに、罹患者をホテルや自宅に待機させる制度が構築され、指定感染症にしてしまったポカがリセットされた。

以上のことから、日本政府が最優先と位置付けた「武漢肺炎による死者を最小化する」こと、及びそのための手段としての「医療崩壊を何がなんでも回避する」という方針は、PCR検査の最小化というアプローチで実現することができた。医療体制の再構築の時間稼ぎもできたので、これらの意味では日本政府の通信簿は少なくとも及第点であるのは間違いない。

では、日本政府のその他の判断や方針は適切であったのかという点を見てみたい。

まず一つ目が、緊急事態宣言の発出時期について。まず、既に明らかになっていることだが、実効再生産者数でみれば4月上旬には1を切り、終息方向に向かいつつあったことが知られている。海外でもロックアウトがなされた国となされていない国との比較から、ロックアウトが感染抑圧の視点からはあまり効果がなかたことが確認されている。だとすると、緊急事態宣言の発出の有無に関わらず、遅かれ早かれ、武漢肺炎の日本国内でのパンデミックは治まっていたことになる。とすれば、緊急事態宣言による経済への悪影響だけがマイナスであったとみることもできる。しかし、話はそう単純ではない。日本では、緊急事態宣言と言えど何も強制力などないのだから、云わば「伝家の宝刀」と見せかけた竹光なのである。しかし、にも拘らずこれだけ短時間に効果が表れたのは、国民が自粛という一つの方向に力を合わせて臨んだからである。この一つの方向に向かわせるにはある種のショック療法が必要で、小池東京都知事が東京をロックダウンすると発言したこともひとつの処方箋であった。私は、東京をロックダウンしたら、東京の患者が各地に散らばってしまいマイナスになるのは間違いないので良い判断だとは思わないが、結果論で見れば多くの国民を脅すにはそれなりの効果があった。その次に来たのが志村けん氏の訃報であり、これは相当な効果があったのだと思う。最後の仕上げが政府の緊急事態宣言で、「ついにこの時が来たのか・・・」という感想を多くの国民に持たせたのだと思う。

ここで注意しておきたいのは、政府の緊急事態宣言には実効的な意味はなく、単なる要請でしかないので、緊急事態宣言が直接的に何らかの効果をもたらしたのではないということは明らかである。つまり、日本政府が想定していたかどうかは別として、国民の「自粛しなきゃ!」という気持ちに火をつけた要因の一つに緊急事態宣言があるのは間違いない。世界的に見れば、この程度のことで気持ちを一つに難局に立ち向かえる国などそうないのだろう。だから、頓珍漢なことをやっているように見えるし、直接的に政府が何かをした訳でもない。あくまでも、間接的な効果として、国民の自粛を促したのである。そして驚くことに、緊急事態宣言が解除された現在においても、この自粛ムードはいまだに残っており、ロックダウン解除後の他国のより戻しの傾向と比較しても、日本の健闘は非常に目覚ましいものがあるということである。

この様に考えた時に、ではタイミング的には非常事態宣言の発出は遅すぎたのではないかという主張もある。確かに、もっと早く非常事態宣言を出していたら、武漢肺炎に感染して死なずに済んだ人も多かっただろう。しかし、あまりにも早期にだされていたら人々の緊迫度は違ったものになっていただろう。つまり、志村けん氏も全快して元気にテレビに顔を出していたら、自粛の本気度は全く別物になる。つまり、期待通りの自粛がなされずに、欧米諸国から「ほら見たことか!」と揶揄される事態になり、かなり長く尾を引くことになったであろうことが予想される。あくまでも結果論だが、全体的には丁度良いタイミングであったのではないかというのが私の感想である。

同様に、小中高校の封鎖の是非についても考えてみたい。結果論からすると、低年齢層は重篤化率も非常に低く、且つ、感染してもウイルスを体外に排出する量が相対的に非常に少なく、結果的に流行に対する影響は非常に小さいことが分かっている。この意味では、小中高校の封鎖は全く無意味であったと言える。しかし、段階的に緊張感を増していくのは意外に妥当なアプローチと言える。例えば、小池東京都知事がロックダウンという言葉を発したタイミングで、トイレットペーパやティッシュペーパの買い占めが起きた。食料品の多くも買い占めがなされ、半ばパニック状態になりかけていた。急激に舵を切るというのはそういうことである。その意味で、小池東京都知事の行動パターンは、かなり浅はかと言わざるを得ない。しかし、日本経済にとっては影響がほとんどない小中高校の封鎖という段階を踏んでいたので、余り極端なパニックが起こることなく、スムーズに緊急事態宣言が実施できたのであると感じている。この辺も、日本政府の意図からはかなり外れたものであるが、結果は大きくプラスに働いたと言える。

実は、この想定外の副次的、間接的な効果というのはそれ以外にもある。所謂、アベノマスク効果である。政府が、各家庭にマスク2枚ずつを決めた時、マスコミも野党もボロクソだった。日本の国会では、あろうことか世界的に向けて「布マスクの無意味さ」を声高に叫び、日本の官僚の国会答弁で自虐的に「世界的に効果が認められているとは言っていない」とまで言わしめた。実際の配付も意外に時間がかかり、一部には不良品もあるなどしてけちょんけちょんに叩かれた。しかし、冷静に考えてみると、あのアベノマスクの配付提案が日本のコロナ問題の全体の流れを結果的には大きく変えたのだと私は感じている。

まず、あの政策の狙いは非常にシンプルで、非常に筋が良いものであった。すなわち、不織布による高性能マスクを医療従事者に集約し、一般国民は布マスクで我慢しようというものであった。布マスクを国家が配付するから、不織布のマスクの争奪戦はもうやめようと首相自ら国民に呼びかけたのである。しかし、これが思わぬ効果をもたらすことになる。当初は世界中の笑いのタネであった「武漢肺炎対策に竹槍(布マスク)かよ!」的な嘲笑が、気が付くと世界の潮流にまで昇華していくことになる。つまり、布マスクは人からの感染を防ぐには無意味かもしれないが、人への感染を防止するには絶大な効果があるという流れである。これは、日本政府も単なる苦し紛れで「ないよりはましだろう!」的な発想だったのが、気が付くと「正解」として認知されることになった。ではそれだけかと問われれば、実はアベノマスクの配付にはそれ以上の効果があったのだ。すなわち、「アベノマスクが出てきたら、不織布マスクの高値転売は無理!」という空気を強く打ち出すという効果である。これは完全に副次的な効果であって、狙ってできたものではない。しかし、意図しないものではあったにせよ、結果的には全体の流れを大きく変えることになった。不織布マスクの市場価格は一時期、1枚100円に迫っていたが、今では1枚40円出せば比較的簡易に変えるようになった。巷では、自家製マスクのお洒落度の競い合いなども見られ、withコロナの中での密かな楽しみ的な部分でもある。結果、医療従事者がマスクで右往左往することはなくなり、医療従事者の罹患を抑制する効果につながった。同様に、高齢者施設内でのマスク着用により、高齢者の集団感染も予防でき、医療崩壊を防ぐ上でも効果が大きい。目に見えないリスクが単に顕在化しなかっただけという結果を目に見える効果として評価するのは難しいが、実際は紙一重のギリギリのところであった可能性も否定できない。とすれば、これは大いに評価されてより部分であろう。しかし、誰も評価などしてくれないのだろうが・・・。

この様に、アベノマスクもマスク配付の直接的な効果としては殆ど価値を見出すことは出来ないのだけれども、その配付行為により副次的に得られた効果は、マスク配付の約460億円よりも遥かに大きな効果となって表れている。これは、左巻きの人々からすれば、直接的な効果ではないから安倍政権の成果とは言えないと言いたいところかもしれないが、走りながら考えるしかない現状において、走りながら結果的にゴールにどんどん近づいたのだから、結果責任が問われる以上、その結果は素直に政府の「得点」として認められるべきであろう。

この様に解説されれば、多分、納得できる部分は多くあると思うのだが、でもそれを敢えて「落第点だ!」と声高に叫びたいのが今のマスメディアである。その声を意図的に海外で宣伝し、更にはそれを逆輸入してマッチポンプ化する大手新聞社も存在する。結果的に日本政府の評判は良くないのだが、それでも日本政府は一喜一憂することなく、道を模索しながら一歩一歩前に進んでいる。その姿勢を私は評価したい。

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