けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

民主主義のコストを嫌い「徳治主義」を目指す韓国

2014-09-10 23:51:43 | 政治
先日のブログ「ウクライナの次は韓国か?」でも引用させて頂いた下記の記事にある、韓国に関するあるポイントについて今日は考えてみたい。

日経ビジネスOnLine 2014年9月4日「『米国の上着』と『中国の下着』をまとう韓国人 法治より徳治――読者と考える

例の如く、会員登録の必要な記事なのだが、その中の後半部分の興味深いところを紹介しておく。この記事は、日本経済新聞社の編集委員でもある鈴置高史氏の記事なのだが、韓国の置かれている状況を韓国やアメリカでの記事、論文等を引用する形で解説をしている。その中で、アメリカは韓国に対して民主主義を教えてきたのだが、その民主主義の運用におけるツールとしての「法治主義」が韓国には性に合わないようで、逆に徳のある指導者の判断による「徳治主義」が性に合っているのだという。この辺は非常に分かり易く、その典型例として「セウォル号特別法」に関する最近の動向を紹介している。詳細は新聞記事に任せるが、セウォル号犠牲者家族は政府側が事件の収束を狙い有耶無耶な幕引きを図ろうとしないよう、与野党、法曹界、被害者の遺家族の3者で構成する真相究明のための真相調査委員会の設置を決めた。しかし、遺族側はこれだけでは不十分だとし、委員会の設置に加え、この委員会に捜査権と起訴権を与える特別法としての法案の制定を狙っている。そして、その要求の直談判の為に、遺族側は朴大統領への面会を求め、大統領府は面会したら世間の同情から「捜査・起訴権」を遺家族に渡さざるを得なくなると心配し、これを拒否したという。

ここで問題なのは何かと言えば、セウォル号事件の当事者である遺族が捜査と起訴権を握れば、「被害者が加害者を裁く」という「人民裁判による復讐」が可能となり、この様な「自救行為」は法律体系においての禁止行為であり、与党や法曹界が強く反対したという。言い換えれば、裁判所による最終的な判断のチャンスは残されるものの、行政サイドで法律の恣意的な運用を許すことになり、これが「法治主義」を破壊するというのである。しかも、与党や法曹界など言わば良識ある立場の者が「禁止行為」と指摘しながらも、それを「大統領であれば超法規的措置が実現可能」と信じて「大統領決済」を求めるという流れである。

この様な流れを理解する上で、もう少し背景を噛み砕いた方が良いかと思い、私なりの解釈を付け加えさせて頂く。世界史は苦手だから詳しくはないが、中国初の統治国家「秦」では法治主義を採用したが、結果的にはその当時は法治主義に失敗した。それ以前からも、有能で徳の高い王が国を支配すれば、それは法治の様なアプローチよりも数段優れているとの考え方が支配的であった。実は、それは私も大いに賛成するところであり、唯一絶対で万能な神の様な聖人君子がありとあらゆるところで判断を行い、全てに関してリーダーシップを発揮できるのであれば、それに勝る統治方法はないと思う。現在の企業においても、非常に優秀な創業者がワンマン経営を行いながら、その創業者社長が従業員の働きぶりを常に把握し、納得感の高い評価を行っていたとする。更には従業員に対しては常に謙虚に接し、従業員の権利や賃金の支払いを従業員目線で行うことが出来たなら、そこにはパワハラやセクハラも存在などしないだろう。従業員は勤労意欲も高く、愛社精神も強いだろうから業績はうなぎ上りとなり、更に有能な人材が集まってくる。好感度企業としての評判も高まり、信頼度がブランド力を生み、世界的にも強い競争力を勝ち取ることになる。この様な展開は私も十分に理解できる。しかし、その様な経営が成り立つのは一体どれ程の規模の企業だろうか?10万人を超える従業員を抱える超大企業にまで成長したとき、一体、社長は社員の顔のどれだけを識別できるだろうか?顔すらわからない人の業績など把握不可能で、結局、組織としてのシステムの中で経営層と労働者は対峙することになる。社長に加えて取締役など幹部陣、事業本部長や各部の部長、課長などの管理職連中を、全て聖人君子並みの人で固めることが出来れば理想通りにもなるだろうが、全てをその様な人で埋めることは出来ない。国家の運営も同様であり、ありとあらゆる犯罪現場に遠山の金さんが出没することを期待することは出来ないから、良からぬことを考える者を取り締まるための法律は必要である。さらに、様々な行政の運用のためのルールや、個人個人の間の利害対立を解決するための法律も必要になる。組織が大きくなればなるほど、運用のルールをきっちり決めておくことが重要なのである。

しかし、その様な法治主義に慣れ親しんだ我々にも、時として首をかしげたくなる事態が起こる。個人情報の漏えいを取り締まり、プライバシーの保護を守るために個人情報保護法が制定されたが、気が付くと子供の小学校の連絡網(住所・電話録)の作成は禁止され、何か子供通しがとラブった時に学校に連絡をしても、子供が迷惑を相手の御両親に謝罪の電話を入れたくても、先生の権限では相手の連絡先を教えることが出来ない。教頭先生などが相手の御両親に連絡を取り、そこで電話番号を伝える了承を取って初めて連絡先を教えることができる。厳密には個人情報保護法ではそこまでの運用を強いる規定とはなっていないとも言われるが、実際には学校側などが(何があっても学校が責められない様な安全側の運用として)杓子定規な行動を取っているので、実効的に我々は非常に不便な思いをすることになる。

しかし、この様な不便さは所謂「民主主義のコスト」の一部であり、相対立する意見が乱立するとき、それらの意見を集約して前に進むために何らかのルールが定められ、一見、遠回りの様に見えるそのルールに従うことで、どの様な時でも権力者が法律を恣意的に運用できない様に取り決めをしている。ポピュリズムの民主党に振り子が振れてしまったのも、為政者に対する国民の監視メカニズムのひとつであり、大分無駄な回り道ではあるが、それでも自民党の腐敗や驕りにブレーキをかけるのには有益だったと思うし、ポピュリズムの危険性を世に知らしめるにも役立ったと思う。高い高い授業料だが、これが民主主義のコストである。
しかし、唯一絶対で万能な徳のある王による統治によりこの様なコストを払いたくないと思えば、それはいつかはヒトラーの様な独裁者を生むことになる。

韓国に話を戻せば、先ほどのセウォル号特別法に関しては、韓国のマスコミはどれ一つとして法律の恣意的運用の危険性を指摘して、遺族側に捜査権・起訴権を渡すことに反対してはいなかったという。徳のある大統領のご判断で、(法的には少々リスクが伴うが)正しい法整備がなされるはず・・・と考え、原理原則など糞くらえということらしい。まさにポピュリズムの何たるかを示している。産経新聞のソウル支局長の拘束なども同様だし、対馬の仏像盗難問題もそうである。そして慰安婦問題や徴用工問題など、理屈もへったくれもない、法律(国と国との条約を含む)など眼中にないという、「正しいものは正しい」「正しいのだから証明の必要がない」という無茶な一方的な主張に疑問すら抱かない。

これらの流れは全て根底では一つに繋がっていて、「民主主義」や「法治主義」、「証拠主義」云々、様々な我々の常識と考えている原理原則が韓国には根底的に根付いておらず、「徳治主義」に代表されるような「法律の恣意的な運用」を合法視する「法の上の(徳のある王による)支配」を志向している。安倍総理が日々訴えている「法の下の支配」の真逆である。

この流れは暫くは止まらない。誰にも止められない。行くところまで行きついたら戻ってくるかも知れないが、まだ当分、戻りそうにはない。韓国の動向を責めるより、この様な視点の冷めた目で韓国を分析していた方が当面は面白そうである。韓国がウクライナ化するかどうかを含めて、暫くは遠巻きに眺めていよう。

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