that blog-ish thingy

ブログ的なアレです。

イタリア旅行記(16)真夜中の教会めぐり

2010年04月23日 | 旅行とか出張とかアレとか
というわけで、前回の続き。

晩飯を食い終わって、ブラブラとフィレンツェ市内を歩いていたのですが、サンタ・マリア・デル・フィオーレ前に差し掛かると、何だかものすごい人だかりなわけです。





おいおい、なんだこれ。
22:00だってのに・・・と思ってさらに近付くと、何だか松明焚いてます。



(手ブレしまくりです。すいません)



さらに、何だか人が教会の中にドンドンと吸い込まれていく。
何だよ、入れるのかよ・・・と思いながら中に入ってみると、



真っ暗。
蝋燭を持った人たちのおかげで、辛うじて歩ける・・・ぐらいの暗さです。



というわけで、暗闇の中で暫く待っていると、ボーッと明かりが点き、





厳粛な雰囲気の中でミサが開始されたわけです。





そうかー、明日は復活祭だからなー。



ということは、何百年前だかに、ここで「パッツィの乱」が起きたってことだよなー。



さて、サンタ・マリア・デル・フィオーレでミサが行われるってことは、きっと他の教会でも行われているんだろうな、ということで、サン・ロレンツォ教会へと足を運びます。
と、その前に、メディチ・リッカルディ宮。



元メディチ家の邸宅。

ちなみに、1537年にアレッサンドロ・デ・メディチ(ロレンツォ・イル・マニーフィコの曾孫)が、分家のロレンツィーノという人に暗殺された場所がココ。
塩野七生「銀色のフィレンツェ」によると、その暗殺方法というのは・・・ネタバレになるからやめておきますかね。
分かる人にだけ分かるようにこの写真載せておきます。



確かにそういう仕掛けがあってもおかしくはなさそう。



さて、サン・ロレンツォ教会。



ファサード(教会の正面のデザイン)は未完成です。



中に入ると・・・



おっ、すげーな。
ルネサンスの香りがする。
さすがメディチゆかりの教会。

ちなみに、先ほどのサンタ・マリア・デル・フィオーレのミサは荘厳な雰囲気で執り行われていたのですが、こちらのサン・ロレンツォは何やらポップ。
賛美歌とかもギターでキャッチーな曲を歌っていたし・・・何だこれ、ヒッピーの集まりか、と一瞬思ったぐらい。
という微妙な雰囲気でミサやるの、神父さんもちょっとアレなんじゃないかなー。



で、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会。
幾何学的なファサードが見事です。



こちらは、ミサは執り行われていたものの、一般入場は制限されていました。

で、ホントはもう一つの「フィレンツェ四大教会」のサンタ・クローチェ教会にも行きたかったんですが、サンタ・マリア・ノヴェッラから歩くの面倒くさくなったので諦めました。

という感じでした。
翌日が復活祭で、ほとんどの観光スポットが閉まっているという事態には見舞われたものの、予想外の貴重なイベントに遭遇出来たわけです。

ラッキーだぜ。
日頃の行いが良いからだな。

さて、次回はいよいよ(というか、ようやく)フィレンツェ旅行、最終日です。
多分、ウッフィツィ美術館について書くような気がしていますが、果たしてどうなることやら。


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イタリア旅行記(15)シニョリーア広場のこととかを簡単に書こうと思ったけど書けず

2010年04月22日 | 旅行とか出張とかアレとか
残りのフィレンツェ話をとっとと終わらせようと思ったのですが・・・ちょいと無理そうです。

さて、フィレンツェに到着したのは土曜日の18:00だったのですが、この時点でほぼ全ての観光スポットは閉館しているわけです。
なので、とりあえず日が出ているうちに見れるところを見ようということで、シニョリーア広場へ。



ヴェッキオ宮。
今も昔もフィレンツェの官庁として機能しています。

ちなみに、建物は外敵から身を守るために、窓は小さく高いところに設置されています。
これについては、塩野七生「海の都の物語(3)」から説明文を抜粋したいと思います。

それなのに、なんというちがいであろう。フィレンツェの政庁は、まるで要塞だ。階の窓は高いところにあり、それも小さく、鉄柵でおおわれ、近づく者を険しく拒絶するような印象を与える。要塞特有の胸間城壁まであって、そこにくられた穴から下に向って、熱した油を流したり矢を射たりする中世の戦法で向えば、壁にとりつくことさえ不可能であったろう。警備の面でも、これならば万全のつくりであったにちがいない。

美しくないと言っているのではない。厳しいけれど、それなりの美しさに満ちている建物である。だが、国内での政争が絶えなかったフィレンツェでは、美しさのみを考えて設計できた建物は、教会だけであった。政庁にかぎらず、旧市街に散らばるメディチ家をはじめとする有力者たちの屋敷は、実に美しいが、いずれも要塞としての目的も考えてつくられている。




(ストロッツィ宮)

フィレンツェ人は、国外の敵からの身を守る前に、まず国内の敵から身を守る必要があったのである。

一方、ヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレはどうであろう。フィレンツェの政庁が石の肌をそのままあらわしたつくりであるのに対し、ヴェネツィアのそれは、石壁がバラ色と白の大理石板でおおわれているという差はひとまず置くとしても、つくり方そのものからして完全にちがっている。





ヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレ(元首官邸)の一階は回廊になっていて、今では絵ハガキ屋が並んでいるそこには、かつては代書屋が店を開いており、市民たちの憩いにも役立つようにと、石のベンチが壁ぎわに並んでいた。憩いに役立つようにとの政府の配慮を極端に解した者もいて、とばく場まで開帳され、政府役員の悩みになったことまである。





二階も閉めきった窓が並んでいるつくりではない。こちらも回廊が並んでいるから、まるですき通しだ。ねぎぼうずのような形のヴェネツィア・ゴシック式のアーチの連続は、精巧なレースを思わせる。





最上部も、胸間城壁などない。メルレット(レース)と呼ばれる、アラブの影響を受けたものと思われる飾りがつけられているだけである。これはまったく飾り以外の用途はなくて、その間から煮えきった油を流そうと、二階や一階のアーチの連なりで分散されてしまい、効果はまったくなかったであろう。



ヴェネツィア政庁は、防禦を目的としてつくられていない。自国民から防禦する必要のなかったヴェネツィアの幸運を、パラッツォ・ドゥカーレは象徴しているのである。泥棒だって、入るのは容易であったにちがいないと思えてくる。


何だか意図せずして、ヴェネツィアの紹介みたいになってしまいましたが・・・まぁ、いいや。



さて、このヴェッキオ宮、なかなかの荘厳な構えで有名ですが、実は結構血なまぐさい話とかもありまして。
そこらへんを「パッツィの乱」を例にとりながら説明したいと思います。

「パッツィの乱」というのは、まぁ、ものすごく簡単に言うとですね、ロレンツォ・イル・マニーフィコが商売敵であるパッツィ家に色々とアレして、怒ったパッツィ家とその一味がロレンツォ・ジュリアーノ兄弟を殺そうとしたという事件です。兄弟を同時に暗殺しようとしたのは、ロレンツォもジュリアーノも有能な上に市民に人気があったから、二人とも始末しないと意味が無い、ということらしいです。

で、その「パッツィの乱」、復活祭の日に、サンタ・マリア・デル・フィオーレで起きたわけです。



その暗殺劇の結果として、弟のジュリアーノは殺されてしまうのですが、ロレンツォは何とか命からがら逃げ出すわけです。
一方の首謀者たちはすぐに一網打尽にされてしまいます。

その首謀者たちがその後、どうなってしまったかについては、塩野七生「わが友マキアヴェッリ」から引用したいと思います。

だが、フランチェスコの態度は、捕われた他の男たちとはちがった。命乞いもせず泣きわめきもせず、悪びれたところなどまったくない態度を保ちつづけ、自分をののしり石を投げる人々と冷然と見やったまま、広場に面した政庁の窓から首つりにされた。



(中略)

激昂した民衆は、もはや正規の裁判など聴く耳を失っていた。聖職者であろうと、容赦はなかった。政庁の窓がいっぱいになれば、近くの警察の庁舎(パラッツォ・デッラ・ポデスタ)の窓が動員された。このどちらかの窓からつるされた刑死体を、レオナルド・ダ・ヴィンチがデッサンしたのである。


ちなみに、このデッサン、ここに載せる気にはならなかったのですが、"Portrait of the Executed Bernardo di Bandino Barnocelli" あたりのキーワードで調べれば出てくると思います。



さて、同じくシニョーリア広場にあるサヴォナローラの銘版とコジモ1世の銅像は後日説明するとして、最後にダビデ像。



これはあんまり興味が無いので飛ばします。



さて、ここらを見終わった段階で宿に荷物を置いて、レストランを探すついでに市内観光。
まずはポンテ・ヴェッキオへ向かいます。



蒼のコントラストがたまらなく幻想的。
ナイス時間帯。



ポンテ・ヴェッキオから見たサンタ・トリニータ橋。



近くにいたツアーガイドが「ここはフィレンツェの中でもカップルに最も人気のあるスポットで・・・」とか言っていて、ちょいとブルーになりました。
俺だって本当は・・・本当はぁ!



あと、どうでも良いんですが、この景色、何だか河口湖っぽいなと思いました。



そんなロマンチックの欠片も無いこと言うから彼女が出来ないんだよ・・・。



ちなみに、ポンテ・ヴェッキオ、今でこそ宝飾店が乱立していますが、昔は景観がちょいと異なっていたようです。
再び、塩野七生「わが友マキアヴェッリ」からの引用。



それにしても、当時のポンテ・ヴェッキオの上は、喧騒をきわめていたにちがいない。肉屋が何軒も両側に並んでいて、活気に満ちていないほうが不自然である。

(中略)

羊も、皮をはがされた姿のままぶらさがっているし、にわとりは生きてコケッコッコといっているし、きじも鳩もほろほろ鳥も、羽毛さえむしりとられていない遺骸のままつるされている。店の前の道路も、汚れを洗い流す水で、やわらかい皮製の靴では、汚れ水を避けて通りぬけるのも、慣れない人には困惑ものであったろう。店の奥では、解体作業中にでる不要な骨など、背後の河に投げ捨てて平気だ。

(中略)

このようなポンテ・ヴェッキオでは外聞が悪いと考えたのが、トスカーナ大公になったメディチ家
(多分、昨日書いたコジモ1世←間違いでした。後日ちゃんと調べたところ、フランチェスコ1世でした)である。公邸と私邸をつなぐ回廊も、ポンテ・ヴェッキオの上を通らせるしかない。渡り廊下の下に展開される光景が肉屋では、息女をフランス王に嫁がせるようになった大公メディチにとっては、具合が悪かったのであろう。肉屋は移転を強制され、そのあとに、貴金属製品を商う店が移ってきた。そして、この形のまま、現代に至っている。

ということだそうです。
ちなみに、塩野七生女史、このポンテ・ヴェッキオのすぐ近くに住んでおられたようです。
詳しくは「わが友マキアヴェッリ」の背表紙にある付録を。



さて、そうこうしているうちに、さすがに腹がペコペコになり申し候、ということでガイドブックを片手にレストランを探していたわけです。
ただ、土曜の夜ということもあり、どこも満席。

仕方がないので、適当にカフェに入り、適当に飯を食ったわけです。
「わが友マキアヴェッリ」を読みながら。



一人で飯ってのは・・・寂しいッス。



で、本を読むのにも疲れてきたので、ちょいと散歩でもしようかなと思い、ブラブラと歩き始めたわけですが、



ここで思いもよらぬ好イベントに遭遇。
いやはやなんともはや、すごいタイミングでフィレンツェに来てしまったなと。

そういうわけで、次回はそこらへんについて書いてみたいと思います。
それにしてもフィレンツェの話、全然終わらないな・・・。


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イタリア旅行記(14)メディチ家ダイジェスト(長いけど)

2010年04月20日 | 旅行とか出張とかアレとか
アイスランドの火山灰の影響で、飛行機がアレみたいですね。
日本でも影響を受けた方がいらっしゃると思います。
こちらでも出張者がイギリスに帰ってこれない or 日本に帰れないみたいな状態が発生しており、プチ混乱が発生しております。

ちなみにイギリスでは、この類の有事が発生するとBlack Humourが巷で氾濫するのですが、今回も

「Dear Iceland, we asked you to send CASH not ASH!」

など、相変わらずウィットの効いた毒々しい表現が出回っているわけで、それはそれで楽しいわけです。
ここらへんは、「ニュースな英語」というコラムで詳細が読めますので参考までに。



さて、更新が滞っていたフィレンツェについて。
今日は(ようやく)メディチ家について書こうと思います。

端的に言うと15世紀にフィレンツェを実質上統制していた商人兼銀行家兼政治家一族です。
元々は薬屋 or 医者。
多分、薬屋。
なお、"Medici"は"Medical"の意。
メディチ家家紋の「六個の球」も丸薬を意味しているそうな(もしくは銀行屋だったことから「貨幣」や「分銅」を意味している)。



で、その薬屋さん、バファリンとかバッサリン(昔、北海道で見かけた頭痛薬)とかを売っていたかどうかは知りませんが、商売をしながら財産を蓄え、そのカネでちょっとした銀行業をやり始めたわけです。そしてその金融業、ジョヴァンニさんという人の代で、法王庁の預金管理を任されたのをきっかけに一気に成り上がり「メディチ銀行」をそれなりに有名な銀行へとのし上げるわけです。ここらあたりからメディチ家の隆盛が始まります。

以下、ピエール・アントネッティ「フィレンツェ史」にあった家系図をデータに起こしたものです。



本家筋が左側、分家筋が右側という具合です。

さて、メディチ家の実質的な祖であるジョヴァンニ・ディ・ビッチさん以降なんですが、こういう風になってます。

◎ コジモ・デ・メディチ。通称、コジモ・イル・ヴェッキオ。「老人(賢人)のコジモ」の意。地味で表舞台になかなか出てこなかったけれども名君。
◎ ピエーロ・ディ・コジモ・デ・メディチ(コジモの息子のピエーロ)。通称、ピエーロ・イル・ゴットーゾ。「痛風持ちのピエーロ」の意。病弱だった故に軽くイジメみたいな名前に。ちなみに、色々と乱暴なことはしたけれども、結果的にそこそこ成功。
◎ ロレンツォ・デ・メディチ。通称、ロレンツォ・イル・マニーフィコ。「偉大なロレンツォ」の意。名君であると共に、ルネサンスの華やかさを体現した大スター。顔はちょっとアレだけれども多才で人望も厚い。ちなみに弟のジュリアーノはイケメンで、これまたスター。兄弟二人でフィレンツェ社交界の人気者。例えるなれば・・・誰だろ?狩人?宗茂と宗猛?まえだまえだ?てじなーにゃ?違うな・・・まぁ、いいや。

さて、このヴェネツィア当主3人(ジョヴァンニを含めれば4人)は、それはそれは大成功を収めまして。商売(繊毛業とか)をやれば大儲け、それを元手に金融業を行い資産を膨らませ、王族・貴族との養子縁組なんかもバッチリやりながらメディチ家としての地位を磐石にしていったわけです。まぁ、要所でフィレンツェから追い出されたりだとか、暗殺劇によりロレンツォの弟のジュリアーノが殺されたりだとか(パッツィの乱)、そういうドラマチックな展開はあったのですが、もう、これがかなりの数のイベントがありましてですね、挙げるとキリがなくなるので割愛しておきます。ただ、いずれもかなり面白いので興味がある人は塩野七生作品を色々と読まれると良いと思います。



さて、ここで一応補足しておくとですね、メディチ家というのは、名目上は「商人・銀行家・政治家」であって、肩書きそのものは王族だとか元首だとかでは無かったんですね。

ただ、名目上はそうだったとしても、実質上どうだったかというと・・・まぁ、結局ね、

世の中ゼニカネだって話ですよ!

というわけで、議員が買収されたり養子縁組の兼ね合いだとかで、実質上はメディチ家が寡頭政治を行っていたというわけなんです。
フィクサーみたいなもんですかね。
ある意味、徳川家康みたいな感じだと思います。

で、じゃあそういうカネや権力にモノを言わせるアレが悪いかと言われれば、そうとも言えないんですね。
というのも、そういうゼニカネのおかげでルネサンス絵画が開花していったので。
ここらへんはまた後日・・・書く元気があれば書きます。



そんな隆盛を極めていたメディチ家ですが、「祇園精舎のうんたらかんたら、おごれる人も久しからず」ですよ。
ロレンツォの息子、ピエーロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(ロレンツォの息子のピエーロ)という人がやらかしてしまうわけです。

何をそんなにやらかしたのかと言うと:
(1)当時、フランスがナポリに侵攻をしようとしていたところ抗戦せずにカネで解決して、さらに市内に引き入れてしまった(元々フィレンツェはフランスと同盟を結んでいた+フランスの強大な軍事力を恐れてフランスの言いなりになってしまった)。
(2)そのフランス軍がフィレンツェ近郊にある都市を陥落してしまった。
(3)和平条約を結んていたはずのフランス軍が、フィレンツェに入るなり横暴な態度で振る舞いフィレンツェ市民の反感を買う。
(4)当時、サヴォナローラという過激な発言で有名な修道士がいて、これがフィレンツェ人たちを扇動し、フランス軍を追い出そうとする(このサヴォナローラさん、かなり面白いので後日改めて何か書くかもしれないです)。

その他にも細々とした理由はあったと思うんですが、いずれにしてもフィレンツェ人たちは「ポポロ・リヴェルタ!(民衆に自由を!)」を叫びながら暴動を起こしてしまうのです。

で、これはヤバイと思ったのか、ピエーロさんは国外に逃亡してしまうわけです。
しかもそんな彼は、後のとある戦争で逃走中に川に落ちて溺死という、残念な最後を迎えるわけです。

ちなみにこのピエーロさん、通称はピエーロ・ロ・スフォルトゥナート(不運なピエロ)もしくはピエーロ・イル・ファトゥオ(愚昧なピエロ)。
塩野七生女史は「わが友マキアヴェッリ」でピエーロをこう評しています。

父が死んだ年、ピエロ・デ・メディチは、二十一歳だった。

(中略)

だが、父のロレンツォも、大任を背負うことになったのは二十歳の年である。また、ピエロだって、イル・マニーフィコと尊称された父の遺産を、すべて継承したということでも、フォルトゥーナ(好運)に恵まれなかったわけではない。ひっきょう、ヴィルトゥ(力量)に欠けていたのであろう。「スフォルトゥナート(不運者)」という彼の渾名は、少々点が甘すぎる感じさえする。


いずれにしても「愚昧なピエロ」は、メディチ家における残念な位置付けなわけです。
ZZで言うならばマシュマー・セロぐらいの残念さ。



と、沙羅双樹の花の色の如く必衰してしまったメディチ家ですが、その後、色々とあってコジモ1世(分家の人)が再びフィレンツェの権力の座に返り咲きます。



シニョーリア広場にいる、あの人です。



ちなみにウッフィツィ美術館内にあるコジモ1世の肖像画は、こんな感じです。



塩野七生「銀色のフィレンツェ」の挿絵ですが。



というわけでメディチ家、コジモ1世以降も、まぁ、それなりに色々なことがあるんですが大雑把にはこんなところです。
ただ、このメディチ家、他にも特筆すべき人たちはかなりいましてですね。

◎ 法王クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ):神聖ローマ帝国のバチカンへの侵攻(ローマの掠奪、1527)の際に中途半端なことを行い、結果としてバチカンの破壊を見過ごしてしまった人。
◎ ロレンツィーノ・デ・メディチ:ルネサンス黄金時代にメディチ家が集めた絵画を何とか回収して、ボッティチェッリの「プリマヴェーラ」と「ヴィーナスの誕生」(共にウッフィツィ美術館所蔵)の両方をベッドルームに飾った人。
◎ 黒備えのジョヴァンニ:勇猛さで名を馳せた傭兵隊長。この人が当時生存していたら「ローマの掠奪」も違う結果になっていただろうと言われている。ちなみに、この人の母親は「イタリアの女傑」として有名なカテリーナ・スフォルツァ。子供が人質に取られた際に、スカートを捲くり上げながら「子供ならここからいくらでも出てくるんだよ!」と言い返したとされている。すげーな。

と、まぁ、ホントに個性豊かな方々が揃っていらっしゃるわけです。
いやー、この時代は何と言うか、ものすごいカオスなわけでして、そういう観点で色々と見ていくと面白いんですよね。

というわけで、以上、メディチ家ダイジェストでした。
次回以降は、恐らく比較的普通の話が出来ると思います。

よろしくお願いします。


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メディチ家がボトルネック中

2010年04月16日 | 本・映画・音楽レビュー
今日はメディチ家について書こうと思っていたのですが、何だかあんまり気乗りがしないのです。
書くのにかなりの気力を要するので。

というわけで、気分転換に教会やらウッフィツィ美術館について書こうかなー、と思ったわけなんですが、でもよくよく考えてみると、教会や美術館も、メディチ家抜きに語ることが出来ないので、結局メディチ家を先に書かないとダメだということに気付きちょっとゲンナリしているわけです。

でもなー。
メディチ家、書くの面倒くさいんだよなー。
かと言いつつ他にネタがあるわじゃないし。

どうしよう・・・。



あ、机の上に山積みになってる書籍を見てふと気付いたんですがね、もしかして自分、色々な意味でマズイことになってるんじゃないかなと。
というのも、目の前に積み上がってる書籍を順に挙げていくとですね、

◎ 塩野七生「海の都の物語(1)~(6)」
◎ 塩野七生「レパントの海戦」
◎ 幸村誠「ヴィンランド・サガ(1)~(6)」
◎ 岩明均「ヒストリエ(1)~(5)」
◎ 夏目漱石「こころ」
◎ 小杉泰「イスラームとは何か」
◎ 地球の歩き方「イスタンブールとトルコの大地」
◎ 井筒俊彦「マホメット」
◎ 浅野裕一「孫子」
◎ 海堂尊「ブラックペアン(上下)」
◎ 地球の歩き方「フィレンツェとトスカーナ」
◎ ピエール・アントネッティ「フィレンツェ史」
◎ 塩野七生「銀色のフィレンツェ」
◎ 塩野七生「わが友マキアヴェッリ」
◎ ウフィッツィ美術館公認ガイド(日本語)

自分で言うのも何ですが、このラインアップ、ちょっと気持ち悪い。
女性が部屋に遊びに来たら、確実に隠しておきたい。
というか、うちに一人で遊びに来てくれる女性なんていないけど。
うるせー。

ただ、マジメな話、そろそろ結婚とかしたいんですよね。
相手がいないからアレなんですけど、色々とアレなんでね。
なので、そろそろアレとかしとくかなー、とか思ってます。



それにしても、最近はホントにイタリアのことしか考えてないんですよね。
既に次の旅行について考えてますし。
行きたいところ候補を挙げていくとですね;

◎ バチカン
◎ イスタンブール
◎ フィレンツェ全般(この前行ったばかりだけど)
◎ アレッツオのサン・フランチェスコ教会(「聖十字架の伝説」を見たい)
◎ ヴィンチ村のレオナルド博物館
◎ ヴェネツィアの海洋史博物館とアルセナーレの北口

そういうわけでプランを練っているところです。

それにしても、まだフィレンツェのこと書き終わってないんですよね。
イギリス戻ってきて既に2週間が経とうとしているのに。
しかもフィレンツェのことを書き終わる頃には、次の旅行に行ってる可能性アリ。
そう考えると、向こう数週間はイタリアのことばかり書くことになりそう・・・というのも、マズイですよねー。
何か面白いネタを仕入れないとなー。
そろそろ SuperDry だとか KIRO YOSHIKANA の新作、チェックしとくかなー。

という感じです。
オチは特に無いです。
別にいつもオチつけられてるわけじゃないですが。
むしろ上手くオチつけられてるときの方が少ないですが。

という「いかにオチがつけられないか」という話をオチにしようとしたのですが、やっぱりそんなんじゃオチなんかつかないので、ここらで潔く諦めます。

終わり。


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イタリア旅行記(13)フィレンツェの歴史はかなり面倒くさいのですよ

2010年04月15日 | 旅行とか出張とかアレとか
というわけでフィレンツェです。



再び何をどうやって書くか迷うところですが、まずは例によって歴史をものすごいダイジェストでお送りしたいと思います。
と、思ったのですが、いざ書いてみたら、ダイジェストなはずなのにものすごいことになってしまいました、予めすいません。
というか、フィレンツェの歴史的事実が凡そダイジェスト(消化)出来るシロモノじゃないのです。

ちなみにフィレンツェに関しては塩野七生作品以外に、「ピエール・アントネッティ著、中島昭和・渡部容子訳『フィレンツェ史』」を参考にしていますので、興味がある方はご一読あれ。



さて、フィレンツェというのは今でこそああいう町ですが、元々はエルトリア人が紀元前10世紀から住んでいたそうです。
エルトリア人というのは、まぁ・・・ここではイタリア先住民ということにしておきましょう。
エルトリア人の話は、これはこれでなかなか面白いんですが、ここではあんまり関係無いので割愛します。

で、紀元前10年、ローマ帝国軍がヒョイと現れ占領。
占領地をローマ帝国退役兵たちの「植民耕地」として利用したわけです。
例の「フィレンツェ史」からの引用。

フィレンツェ(「フロレンティア」)の名はカストゥルム(前述の植民耕地)が「花遊びの祝日(ルーディ・フロラレス、四月三十日から五月三日まで)」の期間中に建設されたこと、あるいはコロニア(植民市)が「花咲く野(アルヴァ・フロレンティア)」のなかに位置していたことに由来する。



ローマの植民市としてスタートしたフィレンツェはその後、ゴート族(という蛮族、ヴェネツィアもその昔攻められてました)にやられたり、ビザンチン帝国に制圧されたりと、なかなか散々な目に合うわけなんですが、9世紀初頭にカール大帝により統治され、町としてはそこそこ安定するわけです。ところが、12世紀初頭にフィレンツェは神聖ローマ帝国に反旗を翻すわけです。で、何だか色々とあって自由を獲得しちゃったわけです。

独立してからのフィレンツェは繊毛業などの加工・輸出でボロ儲けして経済的にはドンドンと発展をしていくわけなんですが、一方の政治がですね・・・これがものすごいドロドロだったわけです。まぁ、その何ですか、要はですね「みんな権力争いに夢中で、都市としての一体感がまるで無いよね」状態に陥ってしまうわけです。

この権力争いというか対立というか抗争というか・・・のきっかけは、前述の「フィレンツェ史」に書かれている内容が面白いので、そのまま抜粋します。

しかしながら、貴族の軍事的比重は依然決定的に重く、一方商人はより強い政治権力を得ようとしていたから、両者のあいだには絶えず軋轢が生じていた。そしてフィレンツェの経済力も、そこから生まれる政治的危機を覆いかくすには至らなかったのである。

(中略)

この脆い均衡が、一二一六年、一見些細なひとつの出来事によってふたたび危うくされる。

ブオンデルモンティ一族の青年、ブオンデルモンテと、アミデーイ家の娘とのあいだに婚約がととのった。ところが青年はドナーティ家の娘を妻とするよう説き伏せられてしまう。ドナーティ家はアミデーイ家と敵対する門閥であった。慣例を無視したこの許しがたい侮辱は、一二一六年の復活祭の日、ブオンデルモンテ青年が花嫁を伴って大聖堂へ赴く途中、ポンテ・ヴェッキオ橋のほとりで流血をもってそそがれることになった。



この挿話は、当時の野蛮な風習と同族の連帯意識の強さを物語って典型的であるが(侮辱に対する報復はアミデーイ家の親類縁者一同が一致して決めたことであった)、これが以後数十年にわたってフィレンツェの町を血で染めるグエルフィ対ギベリーニの抗争の発端となった。


というわけなんですねー。
怖いですねー。



で、グエルフィとギベリーニというやつなんですがね、これがまた色々と面倒なわけです。

グエルフィというのは「教皇派」。
「俺らさ、ローマに近いし何かとローマ側の権力に付いてた方が良いよ。あとさ、キリスト教連合の国も周りに多いから、いざというときに助けてくれるっしょ」という人たち。

一方のギベリーニは「皇帝派」。
「いやいや、何だかんだで武闘派の神聖ローマ帝国の方が良いよ。あいつらいつも勢いあるし、もし攻めて来られたらアウトでしょ。だったら今のうちに媚び売っておこうぜ」という人たち。

言ってみれば「お前、野球どこファン?」と聞かれたときに「最近は巨人が強いから巨人ファンかな?」とか言ってる感じです。
長いものには巻かれろ主義。



さて、そういう「どこの勢力に属する」的な話が過熱する中で、そういうのに便乗した権力・利権争いも発生したわけです。
「俺、アイツのこと個人的に嫌いなんだよね。だからアイツとは違うグエルフィに俺は付くわ」とか「あいつが潰れてくれると俺が商売で儲かるから、俺はギベリーニだな」とかそういったレベルの話があっちでもこっちでも。

何だか気付けばみんな私怨・私利私欲を丸出し。

で、こういう派閥抗争みたいなのが、貴族・銀行・商人・職人・近郊豪族、ありとあらゆる職業階層に跨って発生して、両者間での仁義なき戦いが繰り広げられて、気付けば今度はグエルフィ内で不和が発生して「白派」と「黒派」が出来て、負けた「白派」が権力奪還するためにギベリーニ側に付いて、収集がつかなくなったから誰かが調整に入ったんだけれども、でも最終的には「黒派」がやっぱり勝ってうんたらかんたら・・・


あーもー、めんどくせーなー、オイ。


というわけです。
多分、雰囲気は感じ取ってもらえたと思うので以降の詳細は割愛します。



で、そういう中で登場するのが、かの有名なメディチ家(元薬局)の方々です。



というところで今日は終わりにします。
メディチ家の栄枯盛衰っぷりは、また後日、シニョーリア広場のことに触れながら書きたいと思います。


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