残りのフィレンツェ話をとっとと終わらせようと思ったのですが・・・ちょいと無理そうです。
さて、フィレンツェに到着したのは土曜日の18:00だったのですが、この時点でほぼ全ての観光スポットは閉館しているわけです。
なので、とりあえず日が出ているうちに見れるところを見ようということで、シニョリーア広場へ。
ヴェッキオ宮。
今も昔もフィレンツェの官庁として機能しています。
ちなみに、建物は外敵から身を守るために、窓は小さく高いところに設置されています。
これについては、塩野七生「海の都の物語(3)」から説明文を抜粋したいと思います。
それなのに、なんというちがいであろう。フィレンツェの政庁は、まるで要塞だ。階の窓は高いところにあり、それも小さく、鉄柵でおおわれ、近づく者を険しく拒絶するような印象を与える。要塞特有の胸間城壁まであって、そこにくられた穴から下に向って、熱した油を流したり矢を射たりする中世の戦法で向えば、壁にとりつくことさえ不可能であったろう。警備の面でも、これならば万全のつくりであったにちがいない。
美しくないと言っているのではない。厳しいけれど、それなりの美しさに満ちている建物である。だが、国内での政争が絶えなかったフィレンツェでは、美しさのみを考えて設計できた建物は、教会だけであった。政庁にかぎらず、旧市街に散らばるメディチ家をはじめとする有力者たちの屋敷は、実に美しいが、いずれも要塞としての目的も考えてつくられている。
(ストロッツィ宮)
フィレンツェ人は、国外の敵からの身を守る前に、まず国内の敵から身を守る必要があったのである。
一方、ヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレはどうであろう。フィレンツェの政庁が石の肌をそのままあらわしたつくりであるのに対し、ヴェネツィアのそれは、石壁がバラ色と白の大理石板でおおわれているという差はひとまず置くとしても、つくり方そのものからして完全にちがっている。
ヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレ(元首官邸)の一階は回廊になっていて、今では絵ハガキ屋が並んでいるそこには、かつては代書屋が店を開いており、市民たちの憩いにも役立つようにと、石のベンチが壁ぎわに並んでいた。憩いに役立つようにとの政府の配慮を極端に解した者もいて、とばく場まで開帳され、政府役員の悩みになったことまである。
二階も閉めきった窓が並んでいるつくりではない。こちらも回廊が並んでいるから、まるですき通しだ。ねぎぼうずのような形のヴェネツィア・ゴシック式のアーチの連続は、精巧なレースを思わせる。
最上部も、胸間城壁などない。メルレット(レース)と呼ばれる、アラブの影響を受けたものと思われる飾りがつけられているだけである。これはまったく飾り以外の用途はなくて、その間から煮えきった油を流そうと、二階や一階のアーチの連なりで分散されてしまい、効果はまったくなかったであろう。
ヴェネツィア政庁は、防禦を目的としてつくられていない。自国民から防禦する必要のなかったヴェネツィアの幸運を、パラッツォ・ドゥカーレは象徴しているのである。泥棒だって、入るのは容易であったにちがいないと思えてくる。
何だか意図せずして、ヴェネツィアの紹介みたいになってしまいましたが・・・まぁ、いいや。
さて、このヴェッキオ宮、なかなかの荘厳な構えで有名ですが、実は結構血なまぐさい話とかもありまして。
そこらへんを「パッツィの乱」を例にとりながら説明したいと思います。
「パッツィの乱」というのは、まぁ、ものすごく簡単に言うとですね、ロレンツォ・イル・マニーフィコが商売敵であるパッツィ家に色々とアレして、怒ったパッツィ家とその一味がロレンツォ・ジュリアーノ兄弟を殺そうとしたという事件です。兄弟を同時に暗殺しようとしたのは、ロレンツォもジュリアーノも有能な上に市民に人気があったから、二人とも始末しないと意味が無い、ということらしいです。
で、その「パッツィの乱」、復活祭の日に、サンタ・マリア・デル・フィオーレで起きたわけです。
その暗殺劇の結果として、弟のジュリアーノは殺されてしまうのですが、ロレンツォは何とか命からがら逃げ出すわけです。
一方の首謀者たちはすぐに一網打尽にされてしまいます。
その首謀者たちがその後、どうなってしまったかについては、塩野七生「わが友マキアヴェッリ」から引用したいと思います。
だが、フランチェスコの態度は、捕われた他の男たちとはちがった。命乞いもせず泣きわめきもせず、悪びれたところなどまったくない態度を保ちつづけ、自分をののしり石を投げる人々と冷然と見やったまま、広場に面した政庁の窓から首つりにされた。
(中略)
激昂した民衆は、もはや正規の裁判など聴く耳を失っていた。聖職者であろうと、容赦はなかった。政庁の窓がいっぱいになれば、近くの警察の庁舎(パラッツォ・デッラ・ポデスタ)の窓が動員された。このどちらかの窓からつるされた刑死体を、レオナルド・ダ・ヴィンチがデッサンしたのである。
ちなみに、このデッサン、ここに載せる気にはならなかったのですが、"Portrait of the Executed Bernardo di Bandino Barnocelli" あたりのキーワードで調べれば出てくると思います。
さて、同じくシニョーリア広場にあるサヴォナローラの銘版とコジモ1世の銅像は後日説明するとして、最後にダビデ像。
これはあんまり興味が無いので飛ばします。
さて、ここらを見終わった段階で宿に荷物を置いて、レストランを探すついでに市内観光。
まずはポンテ・ヴェッキオへ向かいます。
蒼のコントラストがたまらなく幻想的。
ナイス時間帯。
ポンテ・ヴェッキオから見たサンタ・トリニータ橋。
近くにいたツアーガイドが「ここはフィレンツェの中でもカップルに最も人気のあるスポットで・・・」とか言っていて、ちょいとブルーになりました。
俺だって本当は・・・本当はぁ!
あと、どうでも良いんですが、この景色、何だか河口湖っぽいなと思いました。
そんなロマンチックの欠片も無いこと言うから彼女が出来ないんだよ・・・。
ちなみに、ポンテ・ヴェッキオ、今でこそ宝飾店が乱立していますが、昔は景観がちょいと異なっていたようです。
再び、塩野七生「わが友マキアヴェッリ」からの引用。
それにしても、当時のポンテ・ヴェッキオの上は、喧騒をきわめていたにちがいない。肉屋が何軒も両側に並んでいて、活気に満ちていないほうが不自然である。
(中略)
羊も、皮をはがされた姿のままぶらさがっているし、にわとりは生きてコケッコッコといっているし、きじも鳩もほろほろ鳥も、羽毛さえむしりとられていない遺骸のままつるされている。店の前の道路も、汚れを洗い流す水で、やわらかい皮製の靴では、汚れ水を避けて通りぬけるのも、慣れない人には困惑ものであったろう。店の奥では、解体作業中にでる不要な骨など、背後の河に投げ捨てて平気だ。
(中略)
このようなポンテ・ヴェッキオでは外聞が悪いと考えたのが、トスカーナ大公になったメディチ家(多分、昨日書いたコジモ1世←間違いでした。後日ちゃんと調べたところ、フランチェスコ1世でした)である。公邸と私邸をつなぐ回廊も、ポンテ・ヴェッキオの上を通らせるしかない。渡り廊下の下に展開される光景が肉屋では、息女をフランス王に嫁がせるようになった大公メディチにとっては、具合が悪かったのであろう。肉屋は移転を強制され、そのあとに、貴金属製品を商う店が移ってきた。そして、この形のまま、現代に至っている。
ということだそうです。
ちなみに、塩野七生女史、このポンテ・ヴェッキオのすぐ近くに住んでおられたようです。
詳しくは「わが友マキアヴェッリ」の背表紙にある付録を。
さて、そうこうしているうちに、さすがに腹がペコペコになり申し候、ということでガイドブックを片手にレストランを探していたわけです。
ただ、土曜の夜ということもあり、どこも満席。
仕方がないので、適当にカフェに入り、適当に飯を食ったわけです。
「わが友マキアヴェッリ」を読みながら。
一人で飯ってのは・・・寂しいッス。
で、本を読むのにも疲れてきたので、ちょいと散歩でもしようかなと思い、ブラブラと歩き始めたわけですが、
ここで思いもよらぬ好イベントに遭遇。
いやはやなんともはや、すごいタイミングでフィレンツェに来てしまったなと。
そういうわけで、次回はそこらへんについて書いてみたいと思います。
それにしてもフィレンツェの話、全然終わらないな・・・。
さて、フィレンツェに到着したのは土曜日の18:00だったのですが、この時点でほぼ全ての観光スポットは閉館しているわけです。
なので、とりあえず日が出ているうちに見れるところを見ようということで、シニョリーア広場へ。
ヴェッキオ宮。
今も昔もフィレンツェの官庁として機能しています。
ちなみに、建物は外敵から身を守るために、窓は小さく高いところに設置されています。
これについては、塩野七生「海の都の物語(3)」から説明文を抜粋したいと思います。
それなのに、なんというちがいであろう。フィレンツェの政庁は、まるで要塞だ。階の窓は高いところにあり、それも小さく、鉄柵でおおわれ、近づく者を険しく拒絶するような印象を与える。要塞特有の胸間城壁まであって、そこにくられた穴から下に向って、熱した油を流したり矢を射たりする中世の戦法で向えば、壁にとりつくことさえ不可能であったろう。警備の面でも、これならば万全のつくりであったにちがいない。
美しくないと言っているのではない。厳しいけれど、それなりの美しさに満ちている建物である。だが、国内での政争が絶えなかったフィレンツェでは、美しさのみを考えて設計できた建物は、教会だけであった。政庁にかぎらず、旧市街に散らばるメディチ家をはじめとする有力者たちの屋敷は、実に美しいが、いずれも要塞としての目的も考えてつくられている。
(ストロッツィ宮)
フィレンツェ人は、国外の敵からの身を守る前に、まず国内の敵から身を守る必要があったのである。
一方、ヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレはどうであろう。フィレンツェの政庁が石の肌をそのままあらわしたつくりであるのに対し、ヴェネツィアのそれは、石壁がバラ色と白の大理石板でおおわれているという差はひとまず置くとしても、つくり方そのものからして完全にちがっている。
ヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレ(元首官邸)の一階は回廊になっていて、今では絵ハガキ屋が並んでいるそこには、かつては代書屋が店を開いており、市民たちの憩いにも役立つようにと、石のベンチが壁ぎわに並んでいた。憩いに役立つようにとの政府の配慮を極端に解した者もいて、とばく場まで開帳され、政府役員の悩みになったことまである。
二階も閉めきった窓が並んでいるつくりではない。こちらも回廊が並んでいるから、まるですき通しだ。ねぎぼうずのような形のヴェネツィア・ゴシック式のアーチの連続は、精巧なレースを思わせる。
最上部も、胸間城壁などない。メルレット(レース)と呼ばれる、アラブの影響を受けたものと思われる飾りがつけられているだけである。これはまったく飾り以外の用途はなくて、その間から煮えきった油を流そうと、二階や一階のアーチの連なりで分散されてしまい、効果はまったくなかったであろう。
ヴェネツィア政庁は、防禦を目的としてつくられていない。自国民から防禦する必要のなかったヴェネツィアの幸運を、パラッツォ・ドゥカーレは象徴しているのである。泥棒だって、入るのは容易であったにちがいないと思えてくる。
何だか意図せずして、ヴェネツィアの紹介みたいになってしまいましたが・・・まぁ、いいや。
さて、このヴェッキオ宮、なかなかの荘厳な構えで有名ですが、実は結構血なまぐさい話とかもありまして。
そこらへんを「パッツィの乱」を例にとりながら説明したいと思います。
「パッツィの乱」というのは、まぁ、ものすごく簡単に言うとですね、ロレンツォ・イル・マニーフィコが商売敵であるパッツィ家に色々とアレして、怒ったパッツィ家とその一味がロレンツォ・ジュリアーノ兄弟を殺そうとしたという事件です。兄弟を同時に暗殺しようとしたのは、ロレンツォもジュリアーノも有能な上に市民に人気があったから、二人とも始末しないと意味が無い、ということらしいです。
で、その「パッツィの乱」、復活祭の日に、サンタ・マリア・デル・フィオーレで起きたわけです。
その暗殺劇の結果として、弟のジュリアーノは殺されてしまうのですが、ロレンツォは何とか命からがら逃げ出すわけです。
一方の首謀者たちはすぐに一網打尽にされてしまいます。
その首謀者たちがその後、どうなってしまったかについては、塩野七生「わが友マキアヴェッリ」から引用したいと思います。
だが、フランチェスコの態度は、捕われた他の男たちとはちがった。命乞いもせず泣きわめきもせず、悪びれたところなどまったくない態度を保ちつづけ、自分をののしり石を投げる人々と冷然と見やったまま、広場に面した政庁の窓から首つりにされた。
(中略)
激昂した民衆は、もはや正規の裁判など聴く耳を失っていた。聖職者であろうと、容赦はなかった。政庁の窓がいっぱいになれば、近くの警察の庁舎(パラッツォ・デッラ・ポデスタ)の窓が動員された。このどちらかの窓からつるされた刑死体を、レオナルド・ダ・ヴィンチがデッサンしたのである。
ちなみに、このデッサン、ここに載せる気にはならなかったのですが、"Portrait of the Executed Bernardo di Bandino Barnocelli" あたりのキーワードで調べれば出てくると思います。
さて、同じくシニョーリア広場にあるサヴォナローラの銘版とコジモ1世の銅像は後日説明するとして、最後にダビデ像。
これはあんまり興味が無いので飛ばします。
さて、ここらを見終わった段階で宿に荷物を置いて、レストランを探すついでに市内観光。
まずはポンテ・ヴェッキオへ向かいます。
蒼のコントラストがたまらなく幻想的。
ナイス時間帯。
ポンテ・ヴェッキオから見たサンタ・トリニータ橋。
近くにいたツアーガイドが「ここはフィレンツェの中でもカップルに最も人気のあるスポットで・・・」とか言っていて、ちょいとブルーになりました。
俺だって本当は・・・本当はぁ!
あと、どうでも良いんですが、この景色、何だか河口湖っぽいなと思いました。
そんなロマンチックの欠片も無いこと言うから彼女が出来ないんだよ・・・。
ちなみに、ポンテ・ヴェッキオ、今でこそ宝飾店が乱立していますが、昔は景観がちょいと異なっていたようです。
再び、塩野七生「わが友マキアヴェッリ」からの引用。
それにしても、当時のポンテ・ヴェッキオの上は、喧騒をきわめていたにちがいない。肉屋が何軒も両側に並んでいて、活気に満ちていないほうが不自然である。
(中略)
羊も、皮をはがされた姿のままぶらさがっているし、にわとりは生きてコケッコッコといっているし、きじも鳩もほろほろ鳥も、羽毛さえむしりとられていない遺骸のままつるされている。店の前の道路も、汚れを洗い流す水で、やわらかい皮製の靴では、汚れ水を避けて通りぬけるのも、慣れない人には困惑ものであったろう。店の奥では、解体作業中にでる不要な骨など、背後の河に投げ捨てて平気だ。
(中略)
このようなポンテ・ヴェッキオでは外聞が悪いと考えたのが、トスカーナ大公になったメディチ家(多分、昨日書いたコジモ1世←間違いでした。後日ちゃんと調べたところ、フランチェスコ1世でした)である。公邸と私邸をつなぐ回廊も、ポンテ・ヴェッキオの上を通らせるしかない。渡り廊下の下に展開される光景が肉屋では、息女をフランス王に嫁がせるようになった大公メディチにとっては、具合が悪かったのであろう。肉屋は移転を強制され、そのあとに、貴金属製品を商う店が移ってきた。そして、この形のまま、現代に至っている。
ということだそうです。
ちなみに、塩野七生女史、このポンテ・ヴェッキオのすぐ近くに住んでおられたようです。
詳しくは「わが友マキアヴェッリ」の背表紙にある付録を。
さて、そうこうしているうちに、さすがに腹がペコペコになり申し候、ということでガイドブックを片手にレストランを探していたわけです。
ただ、土曜の夜ということもあり、どこも満席。
仕方がないので、適当にカフェに入り、適当に飯を食ったわけです。
「わが友マキアヴェッリ」を読みながら。
一人で飯ってのは・・・寂しいッス。
で、本を読むのにも疲れてきたので、ちょいと散歩でもしようかなと思い、ブラブラと歩き始めたわけですが、
ここで思いもよらぬ好イベントに遭遇。
いやはやなんともはや、すごいタイミングでフィレンツェに来てしまったなと。
そういうわけで、次回はそこらへんについて書いてみたいと思います。
それにしてもフィレンツェの話、全然終わらないな・・・。