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西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

アントン・ブルックナー

2007-09-04 07:53:09 | ロマン派
今日は、オーストリアの作曲家アントン・ブルックナーの生誕日です(1824年)。
「モーストリー・クラシック」の最新号(10月号)を見ていたら、今月号からの新連載に、映画「象の背中」が問うもの、というタイトルの文が載っていました。「余命半年と言われたら、あなたは何をしますか」というわけである。その第1回にブルックナーの第9交響曲が取り上げられていた。そのような曲だと思った。別のコーナーで、あるカルテットの奏者が、ベートーベンの14番のカルテットこそ最高の作品と言っていたが、それと並べても良いのではと思っている。楽聖ベートーベンは、常に唯一トップであるべきと思いながらも、ブルックナーのこの曲を並べることは許してもらえるのではないかと、勝手に思ったりしている。この未完の曲がなぜと思われるかも知れないが、ファイァリヒ、ミステリオーゾ(荘厳に、神秘的に)と書かれた第1楽章、スケルツォの第2楽章、それにアダージョの第3楽章、これらを聴けば、自ずとそこに答が出ているように思う。
そして、この文の中で、フルトヴェングラーによる残された唯一のブルックナーの第9交響曲の録音のことが取り上げられていた。1944年10月7日の録音である。ドイツの敗色が濃くなり、フルトヴェングラーはこの4ヵ月後スイスに亡命する。フルトヴェングラーの心中はどのようなものだったのか。この曲を取り上げさせたものは何だったのか。
以前も書いたが、ブルックナーはこの曲を「愛する神に」捧げた。第8は「皇帝に」捧げたが、第9は「神に」捧げたのである。嘘偽りのない気持ちから、そうしたのである。「何のために」などという問いを人間は発することがあるが、私にとってはこの曲を聴く、それが答えの一つになるように思われる。
ブルックナーは、オーストリアのリンツ近郊のアンスフェルデンという小さな村に生まれた。最初にヨーロッパに旅行をしたとき、ハイウェーの休憩した所に、Ansfeldenの文字があった。この向こうにその村があるということだと理解したが、その看板をバックに写真を撮った。その後、いつかリンツに行き、この村を訪れることを夢想しているが、実現するだろうか。



アントン・ブルックナー

2007-08-16 09:32:29 | ロマン派
今日は、オーストリアの作曲家ブルックナーが、ある女性にプロポーズし、断られた日です(1866年)。
1824年生まれのブルックナーは、42歳になっていた。女性は、肉屋の娘のヨゼフィーネ・ラングで、22歳だった。
この頃のブルックナーは、やっと交響曲第1番を書き上げた所でした。作曲家としては、遅咲きということでしょうか。しかし、それ以前にすでに、ミサ曲第1番も書いていて、この66年にはミサ曲第2番が生まれます。
ヨゼフィーネは、ブルックナーの教え子で美人だった。彼は、金時計と祈祷書などを贈り歓心を得ようとしたが、彼女から尊敬しているが結婚の意志はないとの言葉と共に、贈り物も返されたということだ。同様のことはこれ以後も度々あったという。ブルックナーは一風変わった人と伝わっている。このことがあった翌年、体調を崩し、温泉地に滞在することになった。ブルックナーには、砂粒を数えるなど変わった癖があったとのことだ。
ブルックナーの生まれたのはオーストリアのリンツに近い田舎町アンスフェルデンで、11人兄弟の長子として生まれた。写真などが残っているが、それからも彼が素朴で人を疑うことを知らない、流行とは縁遠い人間だったことが、わかるだろう。しかし、作曲したものに対する人の助言には敏感で、その都度反応を示し、これが彼の作品演奏における版の問題を複雑なものにしている。そのような純真無垢な人間が、宗教的に昇華するとどのような音楽が生まれるのか。彼の晩年の作品群は、言ってみれば、人間界を超えたものと私は捉えている。どんな宇宙の意志から彼がこの世に送られてこのような音楽を我々に残してくれる宿命を帯びさせたのかと思う。以前も記したが、私は、彼の長大な音楽はいつまで経っても私の理解の範疇には入らないだろうと思っていた。しかし、今では、どれだけ理解をしているかは別だが、十分な時間があれば彼の音楽を一生に渡って研究したいと思うようになった。交響曲はもちろんのこと、宗教曲、世俗音楽、室内楽曲、ピアノ曲と現在手に入る演奏記録はほとんど聴いてきたつもりだ。(まだ十分理解が及んでないものはもちろん数多くあるが、これからの楽しみと思っている。)
これも以前に書いたと思うが、カラヤンの交響曲第4番と7番の3枚組みのレコードが私をブルックナー開眼へと導いてくれた。心より感謝せざるを得ない。



フランツ・リスト

2007-07-31 07:04:26 | ロマン派
今日は、ハンガリーの作曲家フランツ・リストが亡くなった日です(1886年)。
リストは、ピアノの巨匠として有名ですが、作曲家としても多方面に渡り膨大な作品を残しています。手元にある音楽家の伝記と作品を論じた本によると、作品表はベートーベンが27ページに対してリストは55ページとなっています。そのうち約半数の27ページがピアノ曲(連弾・2台のための、を含む)に当てられています。ピアノの詩人と言われるショパンは管弦楽曲は、有名な2つのピアノ協奏曲を含め数曲書いただけですが、リストはこの分野でも数多くの作品を書いています。その中でも特筆すべきは、交響詩でしょう。リストが開拓した新しい音楽分野と言っていいでしょう。音楽辞典によると、13曲ほど書いています。この分野は後にR.シュトラウスが引き継ぎ、大成します。他に、大規模な2曲のオラトリオをはじめ、宗教音楽の分野でも多くの作品を残しています。他に合唱曲やリートの分野でも少なからぬ数の作品を書いています。だから到底リストについては、その一部を聴いて論ずるにしか過ぎないのですが、私はリストの作品から好みの作品を挙げるとすると、ピアノ協奏曲第1番、交響詩「前奏曲」、ハンガリー狂詩曲第2番(管弦楽版)、「愛の夢」第3番、「巡礼の年」ということになるでしょうか。誰もが挙げるような有名作品ばかりですが、これらはリストの多方面に渡る特徴をよく表しているのではないかと思いますが、どうでしょうか。
ある時、リストのピアノ曲の解説で、その晩年の作品には、未来の、20世紀音楽に通じるものがあるという批評を聞いたことがありますが、私にはまだそのことが掴めていません。私はまだリストについてはほとんど知らないようです。リストは、「音楽とは、本質的に宗教的なものである」という言葉を述べているそうです。この言葉の真意を掴むべくこれからも彼の音楽に耳を傾けたいと思います。

フレデリック・ショパン

2007-07-30 07:06:40 | ロマン派
今日は、フレデリック・ショパンがウィーンに到着し、演奏会に出演した日です(1829年)。
1810年生まれのショパンは、19歳になっていた。29年の7月に、ワルシャワの音楽院を卒業したショパンは、「際立った才能の持ち主」との評価を得、父親は息子をウィーンへと飛び立たせる。ベートーベンが亡くなってから2年、シューベルトが亡くなった翌年に当たるが、ウィーンは依然パリと並ぶ音楽の都であることには変わりなかった。ここで演奏したのは、自作の「ドン・ジョヴァンニの『お手をどうぞ』による変奏曲」と「演奏会用ロンド『クラコーヴィヤク』」の2曲で管弦楽の伴奏を持つピアノ曲だった。2回の演奏会はともに好感を持って迎えられた。幸運にも、演奏会の成功は、自作の出版を齎し、気を良くして、8月半ばウィーンを立ち、プラハ、ドレスデンを通過し、ワルシャワへと戻った。
この1829年は、ショパンにとってもポーランドにとっても大きな意味を持つ年だった。ナポレオンの敗退後、ウィーン会議により、ポーランドはロシア・プロイセン・オーストリアにより再度分割され、ワルシャワ大公国の大部分をロシアが占領し、「ポーランド王国」を立てたが、ロシア皇帝ニコライ1世が王位に就いた。ポーランドはロシアに併合されたわけだ。ロシアの支配を快く思わない愛国的ポーランド人は秘密結社を組織し、29年の春には、ワルシャワに革命の気運が起こった。そして30年になると、7月にパリで起こった七月革命とその余波を受けたベルギーのオランダからの独立があり、これらはポーランドの革命運動を激しく揺さぶった。11月蜂起がそれである。翌31年1月、議会はニコライ1世の退位を宣言するにいたり、独立したかに見えたが、秋には、ロシア軍のワルシャワ軍事占領により、ポーランド王国は廃止され、ロシアの1州となった。ショパンは、この年、ウィーンからザルツブルク、ミュンヘン、シュトゥットガルトと旅行したが、シュトゥットガルトでロシア軍によるワルシャワ陥落の報に接した。この頃、ショパンは作品10の練習曲を作曲していたが、その12のハ短調は激しい感情に見舞われ産み出された作品であることが聴く人には分かるであろう。これは一般に「革命」の名で呼ばれている。

マーラー「交響曲第9番」

2007-06-26 10:24:51 | ロマン派
今日は、マーラーの「交響曲第9番」が初演された日です(1912年)。
マーラーの作品は、大きく交響曲と歌曲に2大別されると言っていいでしょう。
交響曲は、第1番「巨人」から第8番「一千人の交響曲」の後の「大地の歌」、それと9番の後の未完成に終わった10番を合わせ11曲となります。歌曲は、数え方にもよりますが、全部で44曲あります。歌曲の中には交響曲に流用されたものもあり、マーラーの場合、交響曲と歌曲は緊密に結びついていると言っていいでしょう。そしてこれらの頂点に立つ曲が、この「交響曲第9番」と言っていいでしょう。その前の第8番「一千人の交響曲」が名前から分かるように大規模な演奏者陣を要するのに対し、この作品は声楽を含まず室内楽的な要素を持ち、この点でその後の新ウィーン楽派の傾向につながるものがあると言われたりしています。それはともかく、この曲は、死の直前の作品であることから色濃く作曲者の思想を反映したもののように思われます。それを厭世観と名付ける人もいます。1909年夏から作曲を始め、10年に完成しました。その翌年5月マーラーは亡くなり、初演は死後に行われました。ブルックナー同様、この第9番に作曲者の人生の総決算が描き出されているように思います。私は、彼ら2人の「交響曲第9番」から、ベートーベンの全作品から受けたのと同様の大きなことを教えられたように思います。ただ、これらが分かったなどというつもりはなく、ゆっくりその真価を知りたいと思っています。

ブラームス「ピアノ五重奏曲」

2007-06-24 08:53:22 | ロマン派
今日は、ブラームスの「ピアノ五重奏曲」が初演された日です(1868年、パリ)。
この曲は、作曲者31歳の時に書かれ、弦楽四重奏にピアノが加わった唯一の作品です。
1868年の春、ブラームスはデンマークに歌手のシュトックハウゼンと演奏旅行に出かけた。デンマークは、4年前のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争がウィーン条約により終結し、両地方がプロイセン・オーストリアの共同管理下に置かれるなど、ドイツに対しては良い感情を持っていないと思われたが、杞憂に終わり、2人は暖かく歓迎された。そしてある歓迎のパーティーの席上、ブラームスはコペンハーゲンの誇るトルバルセン博物館のことを聞かれ、ここに行った感想を称賛の言葉で述べたのは良かったが、これがベルリンにないのが残念だ、そしてドイツのものだと良かったのだが、と余計なことを言ってしまった。またこの席でビスマルクを大いに褒め上げる言葉も述べた。シュトックハウゼンは、この席での予定されていたブラームスのリートの演奏をやめてしまった。このことは、翌日、町中に知られてしまい、ブラームスは、予定を変更し、キールへと戻ってしまった。シュトックハウゼンは、この出来事から、ブラームスのゲルマン讃美の考えを批判するようになったということだ。
ブラームスのこのような考え方は、2年後にも見られた。70年の普仏戦争である。66年の普墺戦争は、ゲルマンの国同士の戦いで、両国の戦死者に同情をよせたが、今回は違っていた。根っからのフランス嫌いのブラームスは、プロイセンの勝利を願い、義勇軍に参加の意志も持っていた。プロイセンの勝利が分かると、すぐさま「勝利の歌」を作曲し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に捧げたのだった。この普仏戦争で敗戦側のフランスでは、グノーがエレミアの詩による「ガリア」を書き、フランスの哀歌を歌ったのだった。

リヒャルト・シュトラウス

2007-06-11 10:34:20 | ロマン派
今日は、ドイツの作曲家リヒャルト・シュトラウスの生誕日です(1864年)。
シュトラウスの作品群は大きく、交響詩・歌劇・歌曲の3つに分かれます。10の交響詩は、40歳前までに書き終えていますが、15の歌劇は、交響詩の作曲とほぼ交代するように作られ始めました。そして歌曲は、ほとんど生涯に渡って作曲されています。以上の3本柱以外にはどのような曲を残しているのだろう。先ず目に付くのは、協奏曲で、バイオリン協奏曲をはじめ5曲あります。これは生涯の始めの頃2曲、最晩年に3曲作られています。ピアノ作品を含む室内楽曲も書いていますが、そのほとんどは初期の頃の作品です。

シュトラウスが生きた時代、ドイツは大きなうねりの中にいたように思います。
シュトラウス6歳の1871年、プロシア王ウィルヘルム1世がドイツ皇帝に就任します。いわゆるドイツ第2帝国の誕生です。(第1帝国は、いわゆる神聖ローマ帝国のことで、その開始は962年で、終わりはナポレオンによるライン同盟建設の1806年です。)在位100日ほどのフリードリヒ3世をはさんで、3代目のウィルヘルム2世の時、第1次世界大戦があり、その敗北により、第2帝国も1918年に姿を消した。シュトラウス54歳の時である。とても払えないような賠償金をベルサイユ条約で押し付けられたドイツは、疲弊にあえぐ。そこに登場したのがヒトラーであった。ナチスによるドイツ第3帝国の誕生である。1933年のことであった。この時シュトラウス68歳であった。その翌年シュトラウスはドイツ政府から作曲を頼まれる。36年に行われるベルリン・オリンピックのための「オリンピック讃歌」である。その詩は、次のようなものだ。(辞書を使い、訳を試みたいと思っていますが。)

Völker! Seid des Volkes Gäste, kommt durch's offne Tor herein!
Friede sei dem Völkerfeste! Ehre soll der Kampfspruch sein.
Junge Kraft will Mut beweisen, heißes Spiel Olympia!
deinen Glanz in Taten preisen, reines Ziel: Olympia.
Vieler Länder Stolz und Blüte kam zum Kampfesfest herbei;
alles Feuer das da glühte, schlägt zusammen hoch und frei.
Kraft und Geist naht sich mit Zagen. Opfergang Olympia!
Wer darf deinen Lorbeer tragen, Ruhmesklang: Olympia?

Wie nun alle Herzenschlagen in erhobenem Verein,
soll in Taten und in Sagen Eidestreu das Höchste sein.
Freudvoll sollen Meistersiegen, Siegesfest Olympia!
Freude sei noch im Erliegen, Friedensfest: Olympia.
Freudvoll sollen Meistersiegen, Siegesfest Olympia!
Olympia! Olympia! Olympia!

第3帝国も、1945年終わりを告げる。シュトラウスは80歳だった。シュトラウスほど大きな時代の波を受けて生涯を送った音楽家はいないのでは。戦後に作られた「オーボエ協奏曲」、それと歌曲集「4つの最後の歌」はシュトラウスの諦観の境地を語っているように思う。その歌曲集の第2曲「9月」にあるように、シュトラウスは、49年の9月に85歳で亡くなった。

シュトラウスの作品は、やはり私はカラヤンの演奏で聴いてみたい。多くの時代を共有し生きてきたカラヤンこそ、シュトラウスの解釈者として、欠くことのできないものを持っていると思うからである。

ジョルジュ・ビゼー

2007-06-03 11:23:47 | ロマン派
今日は、フランスの作曲家ジョルジュ・ビゼーの亡くなった日です(1875年)。
私は、ビゼーこそフランスを代表する天才的な作曲家だと思っています。そのビゼーは、代表作の歌劇「カルメン」の成功を見た直後に、病気のため無くなりました。40歳にも届かない年齢で。もし、もっと長命であったなら、どんな素晴らしいオペラを残していただろう、またどんな素晴らしい管弦楽作品を作っていただろう、と思います。今となっては、「ドン=プロコピオ」「真珠採り」「イワン雷帝」などの作品でその天才振りを知るしかありません。以前は「真珠採り」くらいしか出ていなかったのですが、最近では他の2作品も手に入れることができます。
ハ長調の交響曲を1曲書いていて、第1番と言われています。「第1番」があるからには、少なくとも「第2番」もあるのだろう。だが、その作品のことは聴いたことがないと長い間思っていたのですが、確かに「第2番」は取り掛かったようです。しかし結局は、破棄されたということです。だから今では、演奏会などで、「交響曲 ハ長調」とあるだけで、「第1番」の言葉は省略されることが多いようです。この作品ですが、これは17歳の時のもので、ここにもビゼーの天才振りが現れているように思います。
ピアノ曲にも、少ないながらも、佳曲を残しています。その他、合唱曲、歌曲などもあります。これらを通じビゼーの天才に接していきたいと思います。

ニコロ・パガニーニ

2007-05-27 11:20:45 | ロマン派
今日は、イタリアの作曲家ニコロ・パガニーニの亡くなった日です(1840年)。
パガニーニと言うと、作曲家であるばかりでなく、バイオリンの名手でもあるわけで、ピアノ界におけるリストという印象を持ちます。巧みな技巧で聴衆を魅了したという話やテクニックを人に盗まれないようにしていたなどという話も伝わっています。そのようなことから、パガニーニは何か理解しがたいないような音楽を作曲していたのではないかと思ったときがありましたが、それが全く違うのですね。幸い、音楽研究も進み、パガニーニの作品のほぼ全貌が知られるようになり、それが演奏されCD化されて、我々が手軽に聴くことができるようになりました。(少し前に、9枚組のCDからなるギターとバイオリンのための全集が出て購入しました。)それがどれも軽やかな美しい旋律に満ちたものばかりなのです。これまでのパガニーニに対するイメージを一変させるものでした。
パガニーニは、何といってもバイオリン協奏曲の第1番と第2番《鐘》がとりわけ有名です(バイオリン協奏曲は6曲書いています)。他に24の奇想曲も代表作と言うべきでしょう。さらに、ギターを含んだ弦楽四重奏曲も15曲ほど書いています。これからもそれらを聴き、パガニーニのまだ知らない美しい旋律に触れたいと思っています。

グスタフ・マーラー

2007-05-18 08:25:56 | ロマン派
今日は、グスタフ・マーラーの亡くなった日です(1911年)。
マーラーのイメージは、とにかく長大なシンフォニーを書いた作曲家ということだろう。クラシック音楽のまだ初心者の時には、その頃自分の知識範囲の西洋音楽史の中にはなかったので(教科書の音楽史には名前がなかったような気がするのですが)、私はその名前さえ知らなかっただろう。また、程なくしてベートーベンの全集を聞くようになったときでさえも、それでもマーラーの名前はブルックナーと共に、遠い所にいたように思う。今でも奇妙なことに覚えているのだが、もうずいぶん昔である、NHKのクラシック番組で毎週一曲ずつ番号順に交響曲を取り上げる企画があった。そのとき、さてこれから最後の曲、第5番をかけるという時、消してしまった。ブルックナー、マーラーのどちらだったかは覚えていないのだが、いずれかであることは確かである。その後、ブラームスやバッハのほとんどの曲にも接し、私の中で聴く用意ができてきたのだろうか。そうだとも、実のところはっきり言えない。そんなとき、カラヤンのマーラーの「第5番」が出た。ジャケットがこれまでにないとても印象的なものだ。帯には「マーラーの新しい時代がやってきた」とある。別に私は帯の宣伝文句につられたわけではない。私は、カラヤンが演奏したものだから安心して、聴くに値するものだと思い、買ったのである。レコードは決して安い買い物ではないから。何回か聴くうちに、これは素晴らしい音楽だと思った。単に喜怒哀楽を享受するだけでない、ここには「思想」と言うべきか「哲学」と言うべきか、尋常でないものがあると思った。葬送行進曲といえば、ベートーベンの「エロイカ」の第2楽章となるが、このマーラーの第1楽章も素晴らしい。カラヤンは、その後第4・6・9番と「大地の歌」、それに歌曲集を2つを世に出した。第3の計画もあったと読んだことがあったが、これは実現しなかった。私は、カラヤンに感謝したい気持ちでいっぱいである。

マーラーは、「大地の歌」を含め全部で11の交響曲を書いたが、番号を追ってますます素晴らしいと考えて間違いないだろう。真の芸術家はこうあるべきと常に考えているのだが。そして私は、マーラーが本当に最後に書いた旋律に心打たれる。それは、第10番の第5楽章のことだ。もちろんこの交響曲は、マーラー自身完成させていない。第1楽章のみがよく取り上げられる。第3楽章を付け加えて録音されたレコードもある。だから2・4・5楽章をマーラーの書き残した草稿をもとに後の人がオーケストレーションしたものだ。今ではオーケストレーションにもいくつかの種類が出ているのかも知れないが、初めて手にしたこの交響曲のレコードは、ウィン・モリスが指揮するニュー・フィルハーモニア管弦楽団のものだった。現代音楽の旗手シェーンベルクは、第9番の第4楽章をさして、この音楽の向こうにあるのは彼我の世界です、のようなことを言ったと本で読んだ覚えがあるが、ではこの第10番の第5楽章の世界は何なのだろうと思います。聴いた後、いや聴きながら、自分がいる世界での「嫌なこと」「思い煩い」が一切遠いところに行くような気がするのである。マーラーはなんという音楽を、贈り物を残してくれたのかと思う。ベートーベンは、「音楽は哲学よりも高い啓示である」ということを述べた(これは以前ここにも書き記した)。私は、ただこの贈り物を有難いと思っている。

後に、他の演奏を聴いてみたいと思い、10番のCDをいくつか買って聴いたが、最初に聴いたこのモリスの演奏が、今のところ一番惹かれている。